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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書4章16~30節

聖書研究 ルカによる福音書4章16~30節(新共同訳 新約pp.107-108)

(1) イザヤの預言の実現(16~21節)

 イエス・キリストは、安息日に「お育ちになったナザレ」(16節)の会堂に入られた。その時、聖書を朗読する機会を与えられた。イエス・キリストが朗読されたのは「預言者イザヤの巻物」であった(17節、イザヤ書61章1~2節)。この箇所を通して、イエス・キリストはご自分の働きの性格を明らかにされた。それは、「貧しい人に福音を告げ知らせる」こと、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ」ること、「圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」ことであった(18~19節)。「福音を告げ知らせる」と訳されているギリシア語(εὐαγγελίζω [euaggelizó])と、「告げる」と訳されているギリシア語(κηρύσσω [kérussó])には同義語が用いられている。
 イエス・キリストは、主なる神と人間の関係を回復し、人間に解放と自由を与えるために来られた。律法では、50年に1度訪れるヨベルの年に、7年に1度やって来る安息の年に行われる負債の免除や奴隷の解放がより広く適用されるよう規定されていた(申命記15章1~18節、レビ記25章10節、13節、39~41節)。しかし、ヨベルの年に関する律法はイスラエルの歴史において余り守られなかった。
 イエス・キリストは、巻物を係の者に返すと、「会堂にいるすべての人」(20節)に「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と言われた。イエス・キリストはヨベルの年の律法を実行する者としてこの世に来られた。イエス・キリストはご自身を信じる者に自由と平和と安息を与えられる。私達はイエス・キリストにあって「今日」ヨベルの年の恵みを味わうことが出来る。

(2) ナザレの人々の拒絶(22~30節)

 会堂に集っていたナザレの人々は、イエス・キリストの「口から出る恵み深い言葉」に驚いた。その一方で、イエス・キリストについて「この人はヨセフの子ではないか」と言って見下した(22節)。「この人はヨセフの子ではないか」と訳されているギリシア語の原文(Οὐχὶ υἱός ἐστιν Ἰωσὴφ οὗτος [Ouchi huios estin Iōsēph houtos])を直訳すると、「息子ではないか、ヨセフの、これは」となる。ナザレの人々はイエス・キリストのことを幼い頃から知っていた。そのため、神の御子を自分の町の大工の倅としてしか認めることが出来なかった。イエス・キリストは、ただの大工であるヨセフの倅であって、それ以上の何者でもないという認識は、「イエスはヨセフの子と思われていた」(3章23節)という記述と一致する。
 イエス・キリストは、彼らの否定的な反応に対して、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)と言われた。イエス・キリストにとってそのような反応は予想されていたものであった。実際、預言者エレミヤも故郷のアナトトで拒絶されている(エレミヤ書11章21~23節)。
 イエス・キリストは、預言者エリヤが「シドン地方のサレプタのやもめ」のもとに遣わされたこと(26節、列王記上17章8~24節)、預言者エリシャが「シリア人ナアマン」の重い皮膚病を癒したことに言及する(27節、列王記下5章9~14節)。どちらもイスラエルが主なる神との契約を破って悔い改めることを拒んでいた時に主なる神の恵みが異邦人に与えられた事例である。イエス・キリストがこれらの出来事を取り上げられたのは、ナザレの人々がイエス・キリストを拒むなら、主なる神の恵みは異邦人に与えられるということを示すためである。イエス・キリストに対する反応が、倒れるか立ち上がるかを分ける(2章34節)。
 ナザレの人々は、イエス・キリストの言葉を聞いて、皆憤慨した(28節)。そして、イエス・キリストを町の外に追い出し、山の崖から突き落とそうとした(29節)。イエス・キリストが、異邦人に対する主なる神の怒りではなく、異邦人の救いについて話されたからである。この出来事は、イエス・キリストの歩まれる道が苦難の道であり、その苦しみを通して救いが成就されることを暗示している。