Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書5章1~11節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書5章1~11節(新共同訳 新約pp.109-110)

(1) お言葉ですから(1~7節)

 イエス・キリストの言葉と御業には権威と力があることを聞き、群衆が「神の言葉を聞こうとして」押し寄せてきた(1節)。この時、イエス・キリストは「ゲネサレト湖畔」におられた(1節)。そして、「二そうの舟が岸に」あり、漁師が「網を洗って」いるのを御覧になった(2節)。イエス・キリストは、2艘の舟のうちシモン(ペトロ)の舟に乗り、舟を「岸から少し漕ぎ出すよう」頼まれた。それは「舟から群衆に教え」るためであった(3節)。
 イエス・キリストがシモンの舟で教えておられた時、最も近くで聞いていたのはシモンである。群衆に「話し終わ」ると、イエス・キリストはシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)と言われた。この時、シモンは、自分達が夜通し漁をしたけれども、労苦は報われず、魚は1匹も獲れなかったことをイエス・キリストに伝えた。しかし、それにもかかわらず、彼は「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた(5節)。魚を獲ることに関して専門家であるシモンが、自分の判断に固執せず、イエス・キリストの言葉に従ったのは、イエス・キリストが彼の姑の熱病を癒されるのを見たからだろう(4章38~39節)。
 イエス・キリストの言葉通り、網を降ろすと、「網が破れそうに」なるほど「おびただしい魚」がかかった(6節)。そのため、魚を2艘の舟に分けて引き上げたが、どちらの舟も沈みそうになった(7節)。このようなことはシモンの漁師人生において今まで一度もなかっただろう。

(2) 人間をとる漁師への召し(8~11節)

 イエス・キリストの言葉に従って網を降ろし、非常に多くの魚が獲れた時、シモンはイエス・キリストの足もとにひれ伏した(8節)。これはイエス・キリストに対するシモンの完全な服従を意味する。そして、彼は「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と頼んだ(8節)。
 シモンがこのような行動をとったのは、尋常でない大漁に「驚いた」からである(9節)。「驚いた」は、ギリシア語の原文では主語に当たる名詞(θάμβος [thambos])で記されている。「シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブヨハネも同様だった」(10節)も、ギリシア語の原文ではヤコブヨハネが目的語になっている。驚きがシモンを、また彼と一緒にいた全ての人を捉えたのである。この御業を通して、シモンは、イエス・キリストが尊敬すべき「先生」(5節)程度の方ではなく、いと高き「主」であることを悟った。そして、主なる神の臨在を感じた彼は、自分が罪人であるという告白へと導かれた。
 驚きと畏れの思いに捉えられたシモンに、イエス・キリストは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われた(10節)。イエス・キリストは、これまで漁師として生きてきたシモンを、「人間をとる」という新しい任務へと召された。後に弟子達は、復活のイエス・キリストの言葉通りに行って、153匹の魚が獲れるという御業を見ている(ヨハネによる福音書21章6~11節)。シモンがイエス・キリストの言葉に従って獲れた沢山の魚は、悪魔の支配と束縛――海によって象徴されている――の下から救い出された沢山の人間を象徴している。
 イエス・キリストがシモンに語られた言葉によって、彼とその仲間は、舟を陸に引き上げ、「すべてを捨てて」イエス・キリストに従った(11節)。こうして彼らは、イエス・キリストの最初の弟子となった。