Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書6章1~11節

聖書研究 ルカによる福音書6章1~11節(新共同訳 新約pp.111-112)

(1) 安息日の主イエス・キリスト(1~5節)

 イエス・キリストの弟子達が安息日に麦の穂を摘み、手で揉んで食べた(1節)。この日が安息日でなかったなら、弟子達の行動は特に問題視されなかっただろう(申命記23章25節)。しかし、ファリサイ派の人々は、彼らが安息日に関する律法を犯したと考えた。弟子達が、安息日に禁止された収穫(穂を摘む行為)、脱穀(手で揉む行為)、料理(食べる行為)をしたと見なしたからである。そのため、彼らはイエス・キリストの弟子達に「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と非難した(2節)。
 それに対し、イエス・キリストは、サウル王に追われていたダビデが、祭司だけが食べることの出来る供えのパンを取って食べ、供の者にも与えた例を挙げて反駁された(3~4節)。イエス・キリストの答えは、幾つかの聖書の記事を前提としている。第一に、祭司とその家族以外は供えのパンを食べることが出来なかった(レビ記24章9節)。第二に、安息日ごとに新しいパンを供えた(同8節)。第三に、ダビデとその供の者が祭司の所に行ったのは、「パンを供え替える日」、即ち安息日であった。そして、空腹だった彼らが何か食べるものを求めた時、祭司は「焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパン」を与えた(サムエル記上21章4~5節、7節)。それ故、弟子達の行為を罪に定めるのは間違いであるとイエス・キリストは語られた。
 更に、イエス・キリストは「人の子は安息日の主である」(6節)と宣言された。安息日に何をするのが正しいかを決定するのは、ファリサイ派の人々ではなく、「人の子」であるイエス・キリストご自身であると言われたのである。これによって、イエス・キリストファリサイ派の人々の間に最初の安息日論争が起こった。

(2) 手の萎えた人の癒し(6~11節)

 安息日にイエス・キリストは会堂で教えられた。そこに「その右手が萎えていた」人がいた(6節)。律法学者とファリサイ派の人々は、イエス・キリストがその人を癒されるかどうか注視していた(7節)。イエス・キリストを安息日違反で訴える口実を見つけようとしたのである。
 律法学者とファリサイ派の人々の考えを見抜かれたイエス・キリストは、手の萎えた人を真中に立たせた(8節)。そして、彼らに「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(9節)と尋ねられた。彼らはどんな場合でも善を行うこと、つまり命を救うことが正しいことであると知っていた。しかし、そのように答えることが出来なかった。イエス・キリストを訴える口実を失ってしまうからである。
 イエス・キリストは、彼ら一同を見回してから、手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言われた。その人がイエス・キリストの言葉に従うと、手は元通りになった(10節)。翌日にその人と会う約束をして癒すことも出来たのに、イエス・キリストが敢えて安息日に、しかも公の場で癒されたのは、ご自身が安息日の主であることを示すためであった。安息日の主であられるイエス・キリストに従う時、私達は命を与えられ、真の安息を味わうことが出来る。
 だが、律法学者とファリサイ派の人々は、イエス・キリストが安息日に手の萎えた人を癒されたことを受け入れることが出来なかった。イエス・キリストを安息日の主として認めることが出来なかった。そればかりか、彼らは怒り狂って、「イエスを何とかしよう」と話し合い始めた(11節)。この彼らの状態は、イエス・キリストを十字架につけることによって頂点に達する。