読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 列王記上21章1~24節

聖書の黙想と適用 列王記上21章1~24節(新共同訳 旧約pp.570-571)

(1) 律法を忠実に守ろうとしたナボト

 アハブはイスラエルの王として既に多くのものを所有していた。にもかかわらず、王宮近くにあったナボトのぶどう園を欲しがった。アハブが最初とても良い条件を提示してぶどう園を買い取ろうとした(2節)。
 しかし、ナボトは「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と言って、アハブの提案を拒んだ(3節)。主なる神から与えられた嗣業の地を、人間が勝手に売買することは律法で禁じられていたからである(レビ記25章23~28節、民数記27章7~11節、36章7節)。ナボトは、偶像礼拝の蔓延るイスラエルにあっても主なる神を畏れ、主なる神の律法を忠実に守ろうとする信仰者であった。

(2) 主なる神を恐れないアハブとイゼベル

 ナボトに断られたアハブは、不機嫌になり、宮殿に帰って行った(4節)。王妃イゼベルは、アハブから事の次第を聞くと(5~6節)、「今イスラエルを支配しているのはあなたです」と言って、自分がそのぶどう園を手に入れてあげると約束した(7節)。イスラエルの王であったアハブは律法を一応考慮した。しかし、「シドン人の王エトバアルの娘」(16章31節)であるイゼベルにとっては、王は絶対的な権力を行使して思いのままに出来る存在であり、また律法はどうでもいいものであった。
 陰謀に長けたイゼベルは、ナボトに直接手を下すのではなく、律法を悪用した。イスラエルでは、2人以上の人間が同じ証言をすれば、証拠がなくても、それは事実とされた(申命記17章6節、19章15節)。そこでイゼベルはアハブの名で「ナボトのいる町に住む長老と貴族」に手紙を送った(8節)。その手紙には、偽りの証人を立てて、「ナボトが神と王とを呪った」と証言させ、それを理由に彼を処刑せよと記されていた(9~10節、出エジプト記22章27節、レビ記24章15~16節)。
 アハブとイゼベルは、自分に与えられていた権力と地位、更には主なる神の律法さえ悪用して、ナボトを殺し、彼のぶどう畑を自分のものにしようとした。欲に囚われた者は、この世の中心は自分であると考える。そして、自分の思いのままにするために、何の後ろめたさもなく、力のない人を犠牲にする。しかし、それは主なる神に敵対する行為である。
 アハブ自身、この後エリヤを「わたしの敵」と呼んでいる(20節)。アハブがエリヤを「わたしの敵」と見なしたことは、彼を遣わした主なる神をも敵と見なしたことを意味する。カルメル山で主なる神の御業を見、アラムとの戦いにおいて主なる神の導きによって勝利したにもかかわらず、アハブは主なる神に立ち返ろうとしなかった。
 欲はどれほど小さなものでも、次第に大きくなっていく。そして、欲が罪を生み、罪が死を生み出す(ローマの信徒への手紙6章23節、ヤコブの手紙1章15節)。自分の思い通りになるのが良いことであるように見えるのは、罪に誘い込む悪魔の罠である。

(3) 悪事に加担した長老と貴族

 アハブの名で書かれたイゼベルの手紙を受け取った長老と貴族は、イゼベルの要求に従い(11節)、ナボトを石打ちにして殺した(13節)。アハブとイゼベルが問題であるのは言うまでもないが、彼らの陰謀に何の抵抗もせず、悪事の道具となった長老と貴族も問題である。彼らはナボトを無実の罪で死に追いやることに何の躊躇いも感じなかった。私達も、自分が不利益を蒙るのを恐れて、悪事を黙認したり、それに加担したりしてはいないだろうか。

(4) 全てを見ておられる主なる神

 イゼベルからナボトが死んだことを聞くと(15節)、アハブは直ちにナボトのぶどう畑を自分のものにしようとした(16節)。
 その時、預言者エリヤに主なる神の言葉が臨んだ(17節)。主なる神はエリヤに、アハブと会って(18節)、裁きを宣言するようお命じになった。アハブに対する裁きは死であった。しかも、それは、死体が葬られることなく町に捨てられ、犬の群れが彼の血をなめるという惨めなものであった(19節)。アハブが「人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしよう」(19節)としたからである。
 エリヤは「あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねた」(20節)とアハブを批判し、主なる神がアハブの家を根絶やしにされること(21~22節)、イゼベルがイズレエルの塁壁の中で犬の餌食になることを告げた(23節)。
 アハブとイゼベルの悪事と陰謀を、主なる神は全て御覧になっていた。そして、エリヤを通してそれを責められた。主なる神は、人間が犯した罪を決して見逃されず、必ず報いられる。主なる神の裁きには必ず理由がある。悪を謀れば、その悪は巡り巡って結局自分自身に帰って来る。罪の代価は必ず払われなければならない。たとえ強大な権力と地位を持っていたとしても、主なる神を騙すことは出来ない。