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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書6章12~26節

聖書研究 ルカによる福音書

聖書研究 ルカによる福音書6章12~26節(新共同訳 新約pp.112-113)

(1) 12人を選ぶ(12~19節)

 律法学者やファリサイ派の人々が「イエスを何とかしようと話し合」い始めた時(「そのころ」)、イエス・キリストは山に上って夜通し祈られた(12節)。そして、ご自身と共に神の国のための働きをする12人の弟子を選ばれた。選ばれた12人は「使徒」と名付けられた(13節)。福音書では「使徒」という呼称(233回)よりも、「弟子」という呼称(10回)の方がよく使われている。12人の弟子に代表される新しいイスラエルは、イスラエルの12部族を継承し、主なる神がイエス・キリストにあって建てられる神の国の民となる。その王はイエス・キリストである。
 イエス・キリストはシモンに「ペトロ」と名付けられた(14節)。彼は元々漁師であった(5章2~3節)。シモンの「兄弟アンデレ」は、マタイによる福音書とマルコによる福音書においては4人の漁師が弟子に召される場面で登場しているが、ルカによる福音書ではここで初めて登場する。「ヤコブ、ヨハネ」は、シモンと共に召された弟子である(5章10節)。「フィリポ」はイエス・キリストの初期の弟子の一人で、ナタナエルをイエス・キリストに導いた人物である(ヨハネによる福音書1章44~46節)。ルカによる福音書では12弟子のリストに名前が挙がっているだけだが、ヨハネによる福音書ではその後3回登場する(6章5節、12章21節、14章8~9節)。彼はアンデレやペトロと同じベトサイダの出身である(ヨハネによる福音書1章44節)。
 その他の弟子としては「バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ」(14~16節)、そして「後に裏切り者となったイスカリオテのユダ」が挙げられている。「マタイ」はイエス・キリストに召された徴税人レビのことである(5章27~28節)。「トマス」はヨハネによる福音書でしばしば登場する(11章16節、14章5節、20章24~25節、21章2節)。
 イエス・キリストが、12人の弟子達と共に「山から下りて、平らな所にお立ちになった」時、「大勢の弟子やおびただしい群衆」がそこに集まっていた。ユダヤ人(「ユダヤ全土とエルサレム」)もいれば、異邦人(「ティルスやシドンの海岸地方」)もいた(17節)。彼らは「イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために」(18節)集まっていた。
 イエス・キリストが行われた御業の多くは、イエス・キリストが教えておられた時に起こされた(4章31~37節、5章1~11節、17~26節)。イエス・キリストは絶えず教え、語られた。神の国は、イエス・キリストの言葉によって、それを聴く者に臨む。そして、「汚れた霊に悩まされていた人々」(18節)が癒されるのを見た「群衆は皆、何とかしてイエスに触れよう」(19節)と押し寄せた。

(2) 幸いと不幸(20~26節)

 マタイによる福音書に記されている《山上の説教》が群衆にも向けられたものであったのに対し(5章1~2節)、ルカによる福音書に記されている《平地の説教》は「弟子たち」に向けられたものであった(20節)。また、マタイによる福音書におけるイエス・キリストの《幸い》の宣言では霊的な側面が強調されているのに対し、ここでは経済的、社会的な側面が記されている。
「人の子のために」(22節)、即ちイエス・キリストに従う故に「貧しい人々」(20節)、「今飢えている人々」、「今泣いている人々」(21節)、「人々に憎まれ」(22節)ている人々を、イエス・キリストは「幸いである」と言われた。何故なら、彼らは神の国の民とされているからである(20節)。彼らは、預言者が迫害を受けたように(23節)、「追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」(22節)。しかし、そのような人々に対し、イエス・キリストは「天には大きな報いがある」と約束された。
 一方、イエス・キリストは、「富んでいる」者、「今満腹している人々」、「今笑っている人々」、「すべての人にほめられる」者は「不幸である」と宣言された(24~26節)。彼らは、自信に満ち、自分の力で生きていくことに慣れているため、イエス・キリストの福音を聴く必要性を感じず、それ故救いに到るのが難しいことが多いからである(マルコによる福音書10章17~27節)。12章の「愚かな金持ちのたとえ」や16章の「金持ちとラザロのたとえ」においても、イエス・キリストは、彼らが自分の貧しさ、飢え、惨めさに気付いていないことを問題にされた。「金に執着」し、「人に自分の正しさを見せびらか」していたファリサイ派の人々も、同じ誤りを犯していた(16章14~15節)。自分の弱さを認め、自分には何も出来ないと告白し、主なる神の恵みを慕い求める時、私達は神の国を経験することが出来る。