Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書6章27~38節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書6章27~38節(新共同訳 新約pp.113-114)

(1) 敵を愛しなさい(27~31節)

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(27節)とイエス・キリストは言われる。「わたしの言葉を聞いているあなたがた」(27節)というのは、「弟子たち」(20節)を指している。イエス・キリストは、ご自分の言葉を聞いている弟子達に、神の国の倫理を語られた。神の国の民は、イエス・キリストの言葉に従って生きていく存在である。
 イエス・キリストによれば、弟子達は敵から「悪口を言」われたり、「侮辱」されたり(28節)、「頬を打」たれたり、「上着を奪い取」られたりすることがある(29節)。しかし、イエス・キリストは、そのような敵に対して「祝福を祈」ること(28節)、「もう一方の頬をも向け」ること、「下着をも拒んではならない」ことを弟子達に教えられた(29節)。また、「求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」(30節)とイエス・キリストは言われた。
 その上で、イエス・キリストは、これらの教えの根底にある原則として「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節)と語られた。私達は誰でも、人から良くしてもらいたいと願う。それ故、相手にも良いことをすべきであるというのである。これは対人関係の黄金律である(マタイによる福音書7章12節)。そして、それは敵にも適用される。

(2) あなたがたの父が憐れみ深いように(32~38節)

 イエス・キリストは弟子達に、敵を愛し、自分を憎む者に善を行うことを教えられ(27節)、その具体的な例を挙げられた(28~29節)。こうした行為を通して、イエス・キリストの弟子であることが証明されると共に、神の国が広がっていく。
 この世の人々は「自分を愛してくれる人を愛」する。しかし、弟子達が同じようにしていたら、この世の人々と何も変わらない。「罪人でも、愛してくれる人を愛している」とイエス・キリストは言われる(32節)。また、この世の人々は「自分によくしてくれる人に善いことを」する。しかし、これも特に褒められるべきことではない。「罪人でも同じことをしている」からである(33節)。或いは、この世の人々は「返してもらうことを当てにして貸」す。しかし、それも罪人でさえしていることである(34節)。
 それに対し、イエス・キリストは、弟子達に「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」と述べ、この世の愛の原則を超えて生きることを教えられた。そして、「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」と励まされた(35節)。「いと高き方の子となる」とは、「いと高き方の子」(1章32節)であられるイエス・キリストに似た者へと変えられていくということである。
 イエス・キリストは弟子達に「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と言われた。敵を愛することにおいて弟子達は「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」(35節)方であられる天の父に倣うことを求められた。弟子達自身、天の父から恵みと憐れみと慈しみを受けた者であった。この世の愛を超える、天の父の大きな愛を知らされた者は、天の父に感謝し、天の父に従って生きようとする者へと変えられていく。天の父はそのような者に、愛を実践するための知恵と力を与えて下さる。
 イエス・キリストによれば、私達は「自分の量る秤で量り返される」(38節)。自分も同じことをしているのに、それを棚に上げて、他人を責め立てる時、私達も天の父からその基準によって裁かれることになる(マタイによる福音書18章33節)。それ故、イエス・キリストは弟子達に「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」と求められた。そうすれば、彼らも天の父に「裁かれることがな」く、「罪人だと決められることがな」く、「赦され」、「与えられる」からである(37~38節)。一方、私達が他の人を赦し、分け与えて生きようとするならば、天の父も私達に対し「あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れて」(38節)下さる。天の父は、私達の行いに応じて裁かれ、報われる方である。