Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書7章1~17節

聖書研究 ルカによる福音書7章1~17節(新共同訳 新約pp.114-115)

(1) 百人隊長の部下を癒す(1~10節)

 自分の重んじる「部下が、病気で死にかかっていた」「ある百人隊長」が(2節)、イエス・キリストに助けを求めた。この時、イエス・キリストは、《平地の説教》を民衆に語り終え、カファルナウムにおられた(1節)。イエス・キリストのことを聞いた人々が直接行くことはよくあった(4章37~40節、5章12~15節、6章17節)。しかし、ここで百人隊長は、自ら行く代わりに、「ユダヤ人の長老たち」をイエス・キリストのもとに送った(3節)。異邦人である自分はイエス・キリストのもとに行くのに相応しくないと考えたからである。彼の内に既に信仰が生じていたことが窺える。ルカによる福音書や使徒言行録において、百人隊長は殆ど肯定的に描写されている(23章47節、使徒言行録10章1~2節)。
 長老達は、百人隊長がイエス・キリストに助けていただくに相応しい人物であると述べ、熱心に願った(4節)。これは百人隊長が自分の友達を使いにやって言われた言葉とは対照的である(6~7節)。このことによって彼の謙遜さが更に引き立っている。百人隊長が「そうしていただくのにふさわしい人」である理由として、長老達は、彼が「ユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれた」(5節)ことを挙げている。彼はユダヤ人に対して横柄に振る舞うことをせず、寧ろ彼らのために善い行いをした。しかも、主なる神を畏れる心をもって会堂まで建てている(5節)。そのため、ユダヤ人も彼を深く尊敬するようになった。
 一方、イエス・キリストが長老達と一緒に百人隊長の家から余り遠くない所まで来た時、百人隊長は自分の友達を使いとして送り、「主よ、御足労には及びません」と伝えさせた。彼はイエス・キリストを「自分の屋根の下にお迎えできるような者」ではないと考えていたからである(6節)。これは「そうしていただくのにふさわしい人」という長老達の言葉とは対照的である。
 百人隊長は友人を通してイエス・キリストに、自分の方から「お伺いするのさえふさわしくない」と述べた上で、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」と懇願した(7節)。ユダヤ人の長老達は、イエス・キリストが百人隊長の家に行って部下に手を置くことを期待したが、百人隊長は、イエス・キリストが一言語られるだけで、自分の部下は癒されると信じた。「ふさわしくない」と訳されているギリシア語の動詞(ἀξιόω [axioó])は、「価値があるものに数える」「価値があるものと見なす」という意味で、4節の「ふさわしい」(ἄξιος [axios])に由来する語である。長老達は百人隊長についてイエス・キリストに助けていただくに相応しいと評価していた。しかし、百人隊長自身は、自分は卑しい罪人であり、自分はイエス・キリストを迎え入れるに値するものではないと考えていた。彼が自分の部下の癒しのためにイエス・キリストに求めたのは、「ひと言おっしゃってください」(口語訳では「ただ、お言葉を下さい」、新改訳では「ただ、おことばをいただかせてください」)ということであった。
 百人隊長は、自分の懇願の根拠を自分が属する軍隊のことを引き合いに出しながらイエス・キリストに伝えている。彼は「権威の下に置かれている者」であり、彼の下にも「兵隊」がいた。百人隊長がその「一人に『行け』と言えば行き」、「他の一人に『来い』と言えば来」、「部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりに」した(8節)。それならば、あらゆるものの「主」であられるイエス・キリストが命令される時、この世のいかなるものもそれに従うと百人隊長は信じた。
 イエス・キリストは、友人達を通して伝えられた百人隊長の言葉を聞いて感心された。そして、「群衆の方を振り向いて」、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と語られた(9節)。イエス・キリストがこれほどに肯定的に驚かれたのは初めてのことであった。彼の言葉がご自分を主と告白する「信仰」に基づくものであったからである。福音書記者ルカは、百人隊長の信仰を受けて、イエス・キリストが語られた「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」(マタイによる福音書8章11節)という言葉には言及していない。また、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」(同13節)というイエス・キリストの言葉も記していない。百人隊長の信仰はその言葉によって既に十分に表されているので、敢えてそれを記す必要はないと考えたのだろう。ルカは「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」(10節)ことだけを伝えている。

(2) やもめの息子を生き返らせる(11~17節)

 イエス・キリストは、弟子達や大勢の群衆と一緒にナインという町に向かい(11節)、町の門に近づかれた時、葬式の行列を目にされた(12節)。それは「ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出される」ところであった。福音書記者ルカは、彼女が「やもめ」であったと記すことによって、夫だけでなく一人息子とも死別した母親の憐れな状況や不幸を強調している。「町の人が大勢そばに付き添っていた」ことからも、彼女の悲しみや切なさが伝わってくる(12節)。
 それに対し、イエス・キリストは「この母親を見て、憐れに思」われた(13節)。イエス・キリストは、助けを必要とする人を見た時、常に「憐れに思」われた(マタイによる福音書9章36節、20章34節、マルコによる福音書8章2節)。そして、イエス・キリストがこの母親に「もう泣かなくともよい」と言われたのは、彼女のために御業を行うと告げられたことを意味する。百人隊長の部下を癒された出来事からも分かるように、イエス・キリストの言葉は全て実現する。そのことを強調するために、ルカは「主」という語を用いた。
 イエス・キリストが「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)と言われると、死んでいた息子は「起き上がって」ものを言い始めた(15節)。律法によれば、死体に触れることによってその人は汚れる(民数記19章13節)。そのため、イエス・キリストが、棺に手を触れられた時、担いでいる人達は立ち止まった。しかし、イエス・キリストが言われた通りに死人は応答し、行動した。このことはイエス・キリストに対する百人隊長の告白を思い起こさせる。また、イエス・キリストが生き返った「息子をその母親にお返しになった」ことは、エリヤがサレプタのやもめの息子を生き返らせた奇蹟(列王記上17章23節)、エリシャがシュネムの婦人の息子を生き返らせた奇蹟を想起させる(列王記下4章36~37節)。しかも、彼らは夫々部屋で祈ってから死者を生き返らせたが、イエス・キリストは大勢の人々がいる所で言葉だけで死者を生き返らせた。そのことによってイエス・キリストがこの2人の預言者よりも優れた方であることが示された。
「主」であられるイエス・キリストの言葉には死者も従う。イエス・キリストは死さえも支配される。この驚くべき御業を目撃した人々は、中風の人が癒された御業を見た人々と同じように(5章26節)、皆恐れを抱き、主なる神を讃美した。そして、サレプタのやもめがエリヤを「まことに神の人」であると認めたように(列王記上17章24節)、彼らは「大預言者が我々の間に現れた」とか「神はその民を心にかけてくださった」と告白した(16節)。ガリラヤ南部の小さな町ナインで起こったこの出来事は、その後「ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」(17節)。このことは彼らの驚きが大変なものであったことを示している。