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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書7章36~50節

聖書研究 ルカによる福音書7章36~50節(新共同訳 新約pp.116-117)

(1) 香油を注いだ女(36~43節)

 イエス・キリストが「あるファリサイ派の人」の家に食事に招かれた(36節)。そこに一人の女が「香油の入った石膏の壺を持って」やって来た。彼女はその町で「罪深い女」として知られていた(37節)。
 この女は「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(38節)。彼女がイエス・キリストに塗った香油は、当時大変高価なものであった。これはイエス・キリストの愛に対する彼女の感謝の表明であった。彼女はこの出来事の前にイエス・キリストから罪の赦しを受けたようである。
 しかし、彼女の行為は他の人々の目には衝撃的なものに映った。イエス・キリストを招いたファリサイ派のシモンは、この光景を見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(39節)と思い、イエス・キリストが本当に預言者なのか疑った。もしイエス・キリストが預言者であるならば、彼女が近づいて来ることも触れることも許さなかった筈であると考えたからである。
 それに対し、イエス・キリストは、シモンが心の中で思っていることを見抜き、「シモン、あなたに言いたいことがある」(40節)と言われた。そして、「ある金貸し」から「五百デナリオン」と「五十デナリオン」を借りていた「二人の人」を例に挙げ(41節)、彼らが「借金を帳消しにして」もらった時、「どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」とシモンに訊かれた(42節)。
 シモンが「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えると、イエス・キリストは「そのとおりだ」と言われた(43節)。この時、シモンは、その2人が、人々から罪人であると思われているその女と自分自身を喩えたものであるとは想像すらしていなかった。

(2) 赦されたことと愛すること(44~50節)

 シモンの返答を受けて、イエス・キリストはこの女とシモンを対比して語られた。イエス・キリストに「足を洗う水」も与えること(44節)、「接吻の挨拶」をすること(45節)、「頭にオリーブ油を塗」ることは(46節)、本来シモンが客であるイエス・キリストに対して行うべきもてなしであった。しかし、シモンはそれらを行わず、イエス・キリストを軽く扱った。彼は巡回伝道者を食事に招くという程度にしか考えていなかった。
 一方、この女は、シモンがしなければならなかったことを、特別な敬意をもってイエス・キリストに対して行った。シモンは安価なオリーブ油すらイエス・キリストの頭に注がなかったが、彼女は石膏の壺に入った貴重な香油を、イエス・キリストのために惜しみなく用いた。
 その上で、イエス・キリストは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(47節)と言われた。彼女はこの行為の故に罪を赦されるのではない。どんなに努力しても、行いによっては誰一人主なる神の求められる水準に到達することは出来ない。
 この女がイエス・キリストに対して示した愛は、寧ろ彼女がイエス・キリストから多くの罪を赦されたことの結果であり、それを証明するものであった。「赦された」と訳されているギリシア語の動詞(ἀφέωνται [apheōntai])は現在完了形で、「愛を示した」と訳されているギリシア語の動詞(ἠγάπησεν [ēgapēsen])が過去形で語られていることが、そのことを示している。一方、「愛すること」に関してシモンが「少な」かったのは、彼が自分は正しい人間であると自負していたからである。
 イエス・キリストは、罪の赦しを受け、感謝するこの女に「あなたの罪は赦された」(48節)と改めて宣言された。イエス・キリストがこのように確証して下さったことで、彼女は罪の赦しをいよいよ深く知らされたことだろう。罪が赦されることは、人間が主なる神から受ける最大の恵みである。
 一方、イエス・キリストと同席していた人々は「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」(49節)と考え始めた。これは、イエス・キリストが中風の人の罪の赦しを宣言された時、律法学者やファリサイ派の人々が示した「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(5章21節)という反応より語調は少し弱いけれども、同様の反応である。イエス・キリストに罪の赦しの権威があると信じたなら、このように反応することはなかっただろう。
 イエス・キリストは彼女に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)と宣言された。「救った」と訳されているギリシア語の動詞(σέσωκέν [sesōken])も、上述の「赦された」と同様に、現在完了形である。この女の罪の赦し、即ち救いは、今この瞬間に起こったのではなく、過去の或る時点において起こった。そして、その恵みによって、彼女はイエス・キリストに対する愛を表現したのである。「あなたの信仰があなたを救った」という宣言は、ルカによる福音書に多く出てくる(8章48節、17章19節、18章42節)。