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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書8章1~15節

聖書研究 ルカによる福音書

聖書研究 ルカによる福音書8章1~15節(新共同訳 新約pp.117-118)

(1) イエス・キリストに奉仕した婦人達(1~3節)

 イエス・キリストは、主なる神から与えられた使命に従って(4章18~19節、43~44節)、神の国を宣言し、その福音を宣べ伝えるために町や村を巡回された。そして、そこに12人の弟子達も同行した(1節)。
 また、イエス・キリストの巡回伝道の同行者の中には「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」(2節)もいた。彼女達は神の国の力を自ら体験した人々であった。当時女性は子供や奴隷のように価値のない存在と見なされていた。しかし、イエス・キリストは、社会的偏見にとらわれず、女性を弟子として受け入れるという異例の姿勢を示された。
 女性の弟子達はイエス・キリストの働きにおいて大きな比重を占めた。「マグダラの女と呼ばれるマリア」は、イエス・キリストが「七つの悪霊を追い出して」以来、イエス・キリストの働きに献身的に仕えた(2節)。そして、後に「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」(3節)と共にイエス・キリストの墓に行き、復活の最初の証人となった(24章10節)。マリアやヨハナ以外にも「スサンナ、そのほか多くの婦人たち」が、イエス・キリストの弟子であった。彼女達は、神の国がより多くの人々に宣べ伝えられることを願って、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕し」(3節)、イエス・キリストの働きを経済的に支援した。

(2) 「種を蒔く人」のたとえ(4~15節)

 イエス・キリストは、「方々の町から」集まって来た「大勢の群衆」に対し、神の国について「たとえを用いて」語られた(4節)。たとえを用いられたのは、「神の国の神秘」は、イエス・キリストに「このたとえはどんな意味か」(9節)と尋ね、教えていただくことによって、初めて「悟ることが許され」るからである(10節)。イエス・キリストから神の国に対する知識を与えられなければ、その奥義は隠されたままである。イエス・キリストにとってたとえは啓示の手段であった。
「種を蒔く人」のたとえは、内容も素材も当時の人々が慣れ親しんでいたものであった。そのため、誰でも理解し易く、共感することが出来た。しかし、このたとえからイエス・キリストの意図を把握することは別の問題である。
 ユダヤ人は、種を蒔いた後、その上を土で覆う仕方で畑を耕した。そのため、蒔かれた種の一部が「道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べて」(5節)しまうことはよくあったようである。また、別の種は「石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れて」(6節)しまった。マタイによる福音書とマルコによる福音書では、「石地」ではなく「石だらけで土の少ない所」となっている(マタイによる福音書13章5節、マルコによる福音書4章5節)。或いは、「茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさって」(7節)しまい、実を結ばなかった種もあった。
 しかし、「良い土地に落ち」た種は、「百倍の実を結んだ」(8節)。マタイによる福音書とマルコによる福音書では「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍」になったと記されている。イエス・キリストは、このたとえを話された後、「聞く耳のある者は聞きなさい」(8節)と大声で言われた。「聞く耳のある者」とは、イエス・キリストから「神の国の神秘」(10節)を聞いて信じる者である。そのような者だけが、このたとえの真意を悟ることが出来る。
 イエス・キリストは弟子達に、このたとえの意味を説き明かされた。イエス・キリストは「種は神の言葉である」と言われた(11節、マルコによる福音書4章14節)。マタイによる福音書では種について「御国の言葉」(13章19節)と記されている。種が主なる神の言葉であるということは、神の国を宣べ伝えておられたイエス・キリストが「種を蒔く人」であることを間接的に示している(5章1節、15~16節、6章17節)。
 道端に落ちた種は、「御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たち」(12節)を意味する。イエス・キリストの言葉を聞いて信じる者は救われるが(48節、50節)、悪魔はそれを阻もうとする。
 石地に落ちた種は「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たち」(13節)を意味する。マタイによる福音書とマルコによる福音書は「試練に遭うと」という部分を「御言葉のために艱難や迫害が起こると」と記している(マタイによる福音書13章21節、マルコによる福音書4章17節)。これもまた、悪魔が主なる神の言葉を奪っていく方法である。
 茨の中に落ちた種は「御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たち」(14節)を意味する。この世の事柄に心をとらわれて、主なる神の言葉を捨ててしまう時、実を結ぶことが出来ない。
 良い土地に落ちた種は「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」(15節)を意味する。「守り」と訳されたギリシア語の動詞(κατέχω [katechó])の本来の意味は「しっかりと掴む」である。主なる神の言葉をしっかりと掴むのは、悪魔がそれを奪おうとするからである。主なる神の言葉をしっかりと掴んで生きるためには、忍耐が要求される。主なる神の言葉を何よりも優先すべきものとして生きる時、悪魔に主なる神の言葉を奪われることなく、100倍の実を結ぶ。