Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書8章40~56節

聖書研究 ルカによる福音書8章40~56節(新共同訳 新約pp.120-121)

(1) あなたの信仰があなたを救った(40~48節)

 イエス・キリストが戻って来られると、群衆から歓迎された(40節)。これはゲラサ地方の人々から「自分たちのところから出て行ってもらいたい」(37節)と排斥されたのと対照的である。この時、ヤイロという会堂長が、体面や見栄を捨て、イエス・キリストの足もとにひれ伏し、死にかけていた一人娘の癒しを懇願した(41節)。イエス・キリストの御前にひれ伏すというのは、ゲラサ地方で悪霊を追い出してもらった人がしたことでもあった(35節)。イエス・キリストがヤイロの家に向かわれると、群衆が押し迫って来た(42節)。
 イエス・キリストがヤイロの家に向かわれる途中、一人の女が近寄って来た。彼女は「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえ」(43節)ずにいた。彼女とその家族にとってそれは大きな苦しみだったことだろう。
 しかも、彼女が患っていた病は、律法において汚れと見なされていた。彼女に触れた人も、彼女が使用した寝床や腰掛けも汚れるとされた(レビ記15章7節、25~27節)。そのため、彼女は他者との接触を一切禁じられていた。だから、彼女の行為は、律法を破り、他の人に汚れを移す甚だ身勝手なものと見なされかねなかった。そして、律法によれば、彼女に触れられたことによって、イエス・キリストも汚れたことになる。
 しかし、この女がイエス・キリストの服の房に触れた時、逆の伝染が起こった。彼女の汚れがイエス・キリストに移るのではなく、イエス・キリストの聖さが彼女に及び、彼女の出血が癒されたのである(44節)。彼女がそのようにしたのは、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と信じたからである(マルコによる福音書5章28節、マタイによる福音書9章21節)。イエス・キリストに触れた人々が癒されたという話を、彼女は聞いたのかも知れない(6章19節)。
 とはいえ、この時イエス・キリストは「わたしに触れたのはだれか」と尋ねられた。「わたしに触れたのはだれか」という言葉は、ギリシア語の原文(Tίς ὁ ἁψάμενός μου [Tis ho hapsamenos mou])では「誰が私に触った人であるか」となっている。この言葉は、誰かがイエス・キリストに触ったのは確かであること、彼女の出血が止まったのは偶然ではなく、イエス・キリストの癒しの力によるものであることを示している。人々は皆「自分ではない」と答え、ペトロは「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った(45節)。しかし、イエス・キリストは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」(46節)と告げられた。
 癒された女は最初自分が触れたことを隠しておこうとした。しかし、これ以上は「隠しきれない」と知り、「震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第」を告白した(47節)。彼女の告白について、マタイによる福音書は省略しており(9章21~22節)、マルコによる福音書は彼女が「すべてをありのまま話した」と記している(5章33節)。それに対し、ルカによる福音書は、彼女が「皆の前で話した」ということを強調している。イエス・キリストは、彼女の信仰とその結果について、彼女自身の証しを通して人々に知らせることを願われた。それはこの場にいた会堂長ヤイロを励ますという意味もあっただろう。
 イエス・キリストは、彼女を責めることなく、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(48節)と言われた。この言葉は他の福音書の並行記事にも記されている(マタイによる福音書9章22節、マルコによる福音書5章34節)。また、ルカによる福音書においてイエス・キリストは、この箇所の他に、罪深い女(ユダヤ人)(7章50節)、重い皮膚病を患っていた男(サマリア人)(17章19節)、盲人だった男(ユダヤ人)(18章42節)に対しても、同じことを語っておられる。この宣言は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、男であれ女であれ、イエス・キリストを信じることによって救われるという真理を含んでいる。イエス・キリストを信じることだけが唯一の救いの道であるというのは、ルカによる福音書や使徒言行録を含む聖書全体の教えの核心である。必死の思いで縋る者をイエス・キリストは決して見捨てられない。イエス・キリストの御力を信じる切実な信仰が救いへと導く。

(2) ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる(49~56節)

 イエス・キリストが、出血の止まらなかった女と話をされていた時、会堂長の家から人が来て、娘が死んだという知らせが届いた(49節)。しかし、「この上、先生を煩わすことはありません」(49節)という言葉に対し、イエス・キリストは「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」(50節)とヤイロを励まされた。この時イエス・キリストがヤイロに語られた言葉について、マタイによる福音書の並行記事は伝えておらず、マルコによる福音書の並行記事は「恐れることはない。ただ信じなさい」という部分だけ紹介している(5章36節)。それに対し、ルカによる福音書は「そうすれば、娘は救われる」と、信仰と救いの関係についてより明確に示している。
 イエス・キリストは、泣き悲しんでいる人々に「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」(52節)と言われた。これはヤイロの娘を生き返らせることを念頭に置いた言葉である。しかし、人々は、彼女が確かに死んだことを知っていたので、イエス・キリストを嘲笑った(53節)。
 イエス・キリストは、娘の手を取って「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた(54節)。すると、娘は生き返り、すぐに起き上がった(55節)。イエス・キリストの言葉が死んだ子供に命を与えた。「娘に食べ物を与えるように」(55節)という指示は、イエス・キリストが愛と配慮に満ちた方であられることをよく表している。その一方で、イエス・キリストは、人々の誤解を防ぐために、この出来事を誰にも話さないようお命じになった(56節)。