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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 マタイによる福音書13章44~50節

聖書研究 マタイによる福音書

聖書研究 マタイによる福音書13章44~50節(新共同訳 新約p.26)

(1) 宝と真珠のたとえ(44~46節)

 マタイによる福音書だけに登場するこのたとえ話は、天の国(神の国)の価値と、それを所有するための応答を主題としている。
 イエス・キリストによれば、天の国は一見変わった所のない畑に隠された高価な宝のようである(44節)。当時のユダヤでは、旅の前に、或いは戦争などの危険を避けるために、銅貨や宝石のような貴重品を地中に隠すということがよく行われた。ところが、その持ち主が旅先や戦争で死んでしまい、貴重品が地中に埋められたままになってしまうことがあった。そして、それを誰かが見つけて金持ちになるというのは、それほど珍しい話ではなかった。
 このたとえの焦点は、天の国を見つけた時の喜びと、天の国を所有するために自分が持っているものを喜んで手放したことにある。畑に隠された宝を見つけた人は、自分の持ち物を「喜びながら」売り払い、その畑を買おうとする。事情を知らない人はこの人を愚かであると思う。しかし、実際にはこの人は天の国の価値を知る賢い人である。
 また、イエス・キリストは、天の国を「高価な真珠」に喩えられた。古代社会において真珠は金よりも高く評価されるほど価値があった。「良い真珠を探している」(45節)商人は、高価な真珠を見つけたら、畑の中に宝を見つけた人のように、やはり「持ち物をすっかり売り払」ってでも、それを買おうとする(46節)。
 これらのたとえは、天の国といういかなるものにも比べられない絶対的な価値のあるもののために、相対的に価値のあるものを手放すことについて語っている。天の国はどのような代価を支払ってでも手に入れる価値のあるものである。

(2) 網のたとえ(47~50節)

 イエス・キリストは、天の国を、湖と網、そして良い魚と悪い魚によって説明された。ここに出てくる「網」は大きな底引き網を意味している。網が湖に投げ降ろされると、「いろいろな魚」がその網にかかる(47節)。網に入ってきた全ての魚が漁師を満足させるわけではない。それ故、網が一杯になると、いったん岸へ引き上げる。そして、食べられる「良いもの」は器に入れ、食用に適さない「悪いもの」は投げ捨てる(48節)。このような区分は毒麦のたとえとその主題の面で繋がっている(30節)。
 その上で、イエス・キリストは、「世の終わりにもそうなる」(49節)と言われた。世の終わりになると、主なる神が遣わされる天使達が「正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け」(49節)る。そして、悪い者は「燃え盛る炉の中に投げ込」まれ、「そこで泣きわめいて歯ぎしりする」ことになる(50節)。ここでは毒麦のたとえの説明の内容が繰り返されている(40~42節)。このことは網のたとえが毒麦のたとえと密接に繋がっていることを示している。即ち、網の中の魚の選り分けも、麦と毒麦の選り分けも、最後の審判の時に明らかになる人類の区分を意味する。天の国は誰もが入ることの出来る所ではない。