Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書9章46~62節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書9章46~62節(新共同訳 新約pp.124-125)

(1) 子供を自分の傍に立たせるイエス・キリスト

 子供は決して純粋無垢な存在ではない。子供のいる親、或いは教会などで小さな子供と関わったことのある人は、子供がいかに自分のことしか考えていないか、いかに狡くて我儘であるか知っているのではないか。そして、それ故に大人が注意していないとすぐに喧嘩やいじめが起こってしまう。
 にもかかわらず、イエス・キリストは、一人の子供の手を取り、自分の傍に立たせ(47節)、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(48節)と言われた。イエス・キリストが宣教活動を行われた当時のユダヤでは、子供は人格を認められていなかった。労働力にならない子供は価値のない存在と見なされていた。それだけにイエス・キリストの言葉は弟子達にとって驚愕すべきものだったに違いない。

(2) 誰が一番偉いかを言い争う弟子達

 この時、弟子達は「自分たちのうちでだれがいちばん偉いか」(46節)について言い争っていた。その前にイエス・キリストはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、山に登られ(28節)、栄光に輝く姿を現された(29節)。同行を許された3人、残された9人はどのように感じただろうか。一方、翌日弟子達は悪霊を追い出すことが出来なかった(40節)。こうした中、誰が一番イエス・キリストから信頼されているか、評価されているか、誰が一番大きな働きをしているか、弟子達の間で嫉妬といがみ合いが起こった。
 弟子達は皆高慢であった。この後、彼らは、自分達とは別にイエス・キリストの名によって悪霊を追い出していた者に対して止めさせようとしている(49節)。また、彼らを歓迎しなかったサマリア人に腹を立て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と提案している(54節)。そのような彼らにとって、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」(48節)というイエス・キリストの言葉は全く理解出来ないものだっただろう。

(3) イエス・キリストによって変えられる弟子達

 ところが、そのような高慢な弟子達がやがて変えられていく。イエス・キリストの十字架の御業によって。イエス・キリストは、王の王、主の主でありながら、自らを低くし、「最も小さい者」となり、人間に仕える僕となって下さった。そして、高慢な弟子達、高慢な私を愛して下さり、十字架で私達のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(22章34節)と執り成しの祈りを献げて下さった。イエス・キリストがこのような方であられるから、弟子達は救われ、私も救われた。
 主なる神の御前に無価値な存在である私達を、イエス・キリストは愛し、受け入れて下さった。だからこそ、私達もイエス・キリストの名のために小さな子供を価値ある存在として愛し、受け入れる者とされていく。