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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書10章1~16節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書10章1~16節(新共同訳 新約p.125)

(1) 弱さを通して広がる神の国(1~9節)

 イエス・キリストは、12人の弟子達とは別に、「七十二人」を「御自分が行くつもりのすべての町や村」に2人ずつ遣わされた(1節)。「収穫は多いが、働き手が少ない」(2節)からである。弟子達がこの世に遣わされることは「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」(3節)であるとイエス・キリストは言われる。しかし、弟子達が未熟で弱くても、主なる神が彼らを守り、必要を満たして下さる。
 それ故、イエス・キリストは弟子達に「財布も履物も持って行くな」(4節)と言われた。何も持たずに遣わされた弟子達は、主なる神の御力に頼り、人に助けてもらうしかなかった。一方、イエス・キリストが遣わされた弟子達を助けた人は、彼らから「この家に平和があるように」(5節)という祝福を受けることが出来た。イエス・キリストはそのような人々のことを「平和の子」と呼び、「平和はその人にとどまる」と言われた(6節)。これがイエス・キリストの教える福音宣教の方法であった。
 イエス・キリストの派遣は、福音を携えて出て行く時、主なる神が必要なものを全て満たして下さることを弟子達に教えるものであった。私達は、自分が強くなることによって、豊かになることによって人を救うことが出来ると考える。しかし、イエス・キリストは逆に弟子達を弱く、貧しくすることによって人を救おうとされた。神の国は私達の弱さを通して広がっていく。
 また、この派遣は弟子達に謙遜を教える訓練でもあった。遣わされた先で物乞い同然の彼らを迎え入れてくれるのは、サマリア人や異邦人だけかも知れない。また、食事の時、律法が食べることを禁じているものを出されるかもしれない。それがユダヤ人である彼らにとって容易に受け入れ難いことであるのは言うまでもない。しかし、イエス・キリストは「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(9節)と教えられた。

(2) 福音を拒否することに対する裁き(10~16節)

 救いはイエス・キリストの福音を受け入れることによってのみ得られる。弟子達が伝える福音を受け入れないなら(10節)、主なる神の怒りと裁きと呪いが彼らの内に下る。イエス・キリストは、福音を受け入れない町からは「足についたこの町の埃さえも払い落として」(11節)速やかに出るよう命じられた。福音を伝える弟子達を拒むことは、彼らを遣わしたイエス・キリストを拒むことであり、イエス・キリストを遣わされた主なる神を拒むことだからである(16節)。その罪はかつて天からの火によって滅ぼされた「ソドム」(12節、創世記19章24~25節)よりも重い。どれほど良い人であっても、自分の義をもって主なる神の基準に到達することは出来ない。
 イエス・キリストは、3年間主にガリラヤ地方で福音を宣べ伝え、多くの病人を癒された。にもかかわらず、彼らはイエス・キリストを受け入れなかった。私達は、奇蹟や癒しを沢山行うことが出来たら、多くの人が信じるに違いないと考える。しかし、イエス・キリストが最も多く奇蹟を行い、その恵みと愛を経験した「コラジン」「ベトサイダ」(13節)、「カファルナウム」(15節)といった町は、イエス・キリストに背を向けた。それに対し、イエス・キリストは、異邦人の町である「ティルスやシドンの方が軽い罰で済む」(14節)と言われた。信仰はイエス・キリストの言葉を聞くことから生まれる。だから、教会は、時が良くても悪くても、神の国の福音を宣べ伝えることに力を尽くさなければならない。