Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書10章17~24節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書10章17~24節(新共同訳 新約p.126)

(1) 悪霊をも服従させるイエス・キリストの御名

 イエス・キリストは、72人の弟子を何も持たない状態で派遣された(4節)。そして、彼らを迎えてくれる家に対し、「この家に平和があるように」(5節)と祈ること、「神の国はあなたがたに近づいた」(9節)と宣言することを教えられた。当然彼らは自信満々ではなく、「上手く行くだろうか」と不安の中で出て行ったに違いない。
 しかし、弟子達は「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(17節)と喜びに満たされて帰って来た。それに対し、イエス・キリストは「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」(18節)と言われた。イエス・キリストは荒れ野で悪魔に勝利を収められた(4章1~13節)。それ故、弟子達がイエス・キリストの御名の中で神の国を宣べ伝えた時、彼らは悪霊に勝利することが出来た。
 弟子達は「知恵ある者や賢い者」ではなく、「幼子のような者」、即ち何も持たない貧しい者、低められている者であった(21節)。しかし、イエス・キリストがそのような彼らに「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」(19節)をお授けになった。悪霊を服従させたのは、イエス・キリストの御名であった。「無学な普通の人」(使徒言行録4章13節)であった弟子達が、イエス・キリストの内にあって悪霊を屈服させる。それは、イスラエルの「多くの預言者や王たち」が待望していながら、見ることも聞くことも出来なかったことであった(23~24節)。

(2) イエス・キリストの御名の中での伝道

 イエス・キリストを主と信じ、バプテスマを受けて以降、私は長い間伝道を苦手としてきた。教会で伝道執事を任されたり、伝道委員会の一員だったことはある。イースターやクリスマス、特別伝道集会において企画や準備に関わったり、案内チラシのポスティングを行ったこともある。或いは、近くの大学の入学式の日に、ギデオン協会の方と一緒に校門の前で聖書を配布したこともある。しかし、伝道それ自体については全然出来ていなかった。
 というのは、私は子供の頃から人と一対一で話をすることが非常に不得手だったからである。以前は初対面の人や見ず知らずの人に話しかけることも全く出来なかった。それどころか、よく知っている人に話しかけられても、会話が続かなかった。普通に世間話をするということが、私にとっては普通のことではなく、何か特別な技術を必要とすることのように思われた。
 だからこそ、最初私は人と付き合うために《立場》を何よりも欲した。一人の人間として、或いは友人としての会話は上手く出来なくても、或る立場を与えられ、その役割を《演じる》ことならば出来るのではないかと考えたからである。実際、営業事務の仕事を任された時、クレームへの対応方法など業務に関するマニュアルがあった。だから、お客さんとやり取りが出来ないということだけは避けられた。
 とはいえ、これでは伝道にならない。マルチ商法の業者や新宗教の中には勧誘マニュアルを作成している所もあるようだが、私は教会でそのようなものを見たことは一度もない。イエス・キリストは弟子達に「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイによる福音書28章19~20節)とお命じになった。この《大宣教命令》を遂行出来るのは、相手がどのような人でも臆することなく自分から積極的に話しかけることが出来る人、途切れることなく会話を続けることが出来る人、相手が自分の悩みや問題を話したいと思うような深い信頼関係を築くことの出来る人、即ちコミュニケーション能力の高い人だけなのだろうか。
 このことで悩んでいた時、或る牧師が私に次のような助言を下さった。「伝道は、イエス・キリストに始まり、イエス・キリストに終わる。自分のことを語る時も、相手の話を聞く時も、そのことを決して忘れてはいけない」と。私は今でも茶話会、懇親会、パーティー、交流会などが苦手で、そういう場に行くと独りになってしまうことがある。しかし、この牧師の助言に励まされ、私はイエス・キリストを伝えるということを、イエス・キリストの御名の中で自覚的に取り組むようになった。イエス・キリストは、私達がどれほど弱く、情けなく、問題だらけであっても、そのような私達と共にいて下さる。