Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書10章25~37節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書10章25~37節(新共同訳 新約pp.126-127)

(1) 《私にとっての隣人》を問う律法の専門家

「善いサマリア人」のたとえは、イエス・キリストの代表的なたとえ話として教会やキリスト教学校などでよく取り上げられる。私自身、色々な牧師からこのたとえ話について教えていただいた。にもかかわらず、語る人によって切り口が異なり、読む度に新しい発見がある。
 このたとえ話は、イエス・キリストが「ある律法の専門家」から「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)という質問を受けたことをきっかけに語られたものである。イエス・キリストは彼に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(26節)と逆に尋ねられた。
 それに対し、律法の専門家は、申命記6章5節、レビ記19章18節を引用し、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」(27節)と答えた。イエス・キリストは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(28節)と言われた。イエス・キリストにとって、主なる神への愛、隣人への愛はどちらも軽んじてはならないものであった。そして、愛は感情というよりも寧ろ正義を行うことに関わるものであった。また、イエス・キリストは、律法の実践を否定しているわけでも軽視しているわけでもなかった。
 しかし、律法の専門家は、自分が述べた模範解答を行うことが出来ない「自分を正当化」(29節)するために、「では、わたしの隣人とはだれですか」(29節)と更にイエス・キリストに尋ねた。彼の問いには、隣人の範囲を限定することによって、「あの人は聖書が言う《隣人》ではないから、愛さなければならない対象ではない」という言葉をもって自分を正当化する意図があった。それに対し、イエス・キリストが語られたのが「善いサマリア人」のたとえであった。

(2) 《隣人になった人》を問うイエス・キリスト

 或る人が追いはぎに襲われ、服をはぎ取られ、半殺しにされて、道に放置された(30節)。そこにユダヤ教の指導者である「祭司」(31節)や「レビ人」(32節)が通りかかった。彼らが「その人を見ると、道の向こう側を通って行った」のは、律法では死体に触れると汚れるとされていたからである(レビ記11章24~25節、21章1節)。神殿で奉仕をしなければならなかった彼らは、自分の身が汚れることを恐れた。そのため、死んでいるかも知れない人を見殺しにして立ち去った。
 一方、「旅をしていたあるサマリア人」はそうではなかった。当時ユダヤ人はサマリア人を主なる神の救いに与っていない者として軽蔑していた。サマリア人ユダヤ人に敵対心を持っていた。しかし、彼は倒れていた「その人を見て憐れに思」(33節)った。そして、近寄って傷の手当をし、自分の驢馬に乗せ、宿屋に一緒に連れて行った(34節)。更に、宿屋の主人に自分が持っていた金を渡し、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」(35節)と頼んだ。
 イエス・キリストは、《自分にとっての隣人》を尋ねた律法の専門家に、「だれがおいはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36節)と逆に問われた。そして、「行って、あなたも同じようにしなさい」と求められた。

(3) 私達に愛を与えて下さるイエス・キリスト

「憐れに思った」と訳されているギリシア語の動詞(σπλαγχνίζομαι [splagchnizomai])は、元々「内臓が揺すぶられる」という意味である。この語はこの箇所以外では全てイエス・キリスト、或いは父なる神が主語である(マタイによる福音書9章36節、14章14節、15章32節、18章27節、20章34節、マルコによる福音書1章41節、6章34節、8章2節、9章22節、ルカによる福音書7章13節、15章20節)。罪に汚れ、自分のことしか考えていない私達を、イエス・キリストは愛して下さった。
 私達の内に内臓が揺すぶられるほどの愛を注いで下さる方がおられる。そして、この愛が、自分という枠を突き破り、自分の損得を度外視して人を助けようとすることへと私達を動かす。イエス・キリストの愛が私達の内に留まる時、父なる神の御心が「天におけるように地の上にも」(マタイによる福音書6章10節)実現していく。
 私達には大したことは出来ないかも知れない。その愛の行いを続けることが出来なくなることがあるかも知れない。このサマリア人も、自分の用事を全て放り出して、倒れていた人に関わったわけではない。自分に出来ないことは宿屋の主人に託している。しかし、自分に出来ることをした彼を、イエス・キリストは「追いはぎに襲われた人の隣人になった」と言われた。私達に愛を与えて下さるのがイエス・キリストであるならば、その愛を完成させて下さるのもイエス・キリストである。主なる神は私達に出来る愛の行いを用いて御業を行って下さる。