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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書11章14~28節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書11章14~28節(新共同訳 新約pp.128-129)

(1) イエス・キリストは誰の力で悪霊を追い出していたのか

 イエス・キリストの宣教は、悪魔及びその手下である悪霊との戦いの連続であった。イエス・キリストは、荒れ野で悪魔から誘惑を受けた時に最初の勝利を収め、そして十字架と復活において悪魔に決定的に勝利された。
 イエス・キリストが「口を利けなくする悪霊」を追い出され、「口の利けない人がものを言い始めた」時、群衆は驚嘆した(14節)。しかし、彼らの中には「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)と言う者や、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者」(16節)もいた。彼らはイエス・キリストに悪霊を追い出す力があることは認めていた。しかし、その力が主なる神から来ていることを認めなかった。当時病気の癒しや悪霊の追い出しを行う者はイエス・キリスト以外にも多数存在した。ファリサイ派の人々の中にもいたし、他の宗教を信じる人々の中にもいた。医療の発達した現代の日本においても、難病に苦しむ人やその家族に、そのような癒しをアピールする新宗教や祈祷師、霊能力者がいる。だから、病気が癒されたというだけではイエス・キリストの御力が主なる神から来ている証拠にはならないと彼らは考えた。

(2) 悪霊の「持ち物」となっていた私達を取り返すイエス・キリスト

 それに対し、イエス・キリストは「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(18節)と反論された。イエス・キリストによる悪霊の追い出しは、悪魔と手を組んだ茶番劇、八百長芝居などではない。一人の人間が救われるか、救われないかという《戦い》であった。
 その上で、イエス・キリストは、ご自分が人から悪霊を追い出すことについて「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(22節)という比喩をもってお語りになった。「強い人」とは悪霊、「持ち物」「分捕り品」とは悪霊に取り憑かれていた人、そして「もっと強い者」とはイエス・キリストご自身のことである。悪霊に取り憑かれるというのは悪霊の「持ち物」になってしまうことである。そして、悪霊を追い出すというのは、悪霊の「持ち物」となっていた人をイエス・キリストが取り返すことである。
 イエス・キリストは主なる神の力をもって、悪霊の支配から主なる神の支配のもとに人を取り戻していった。悪魔の力をもって悪霊を追い出しているのであれば、人から出て行った悪霊が「自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着」き、「その人の後の状態は前よりも悪く」なってしまう(26節)。だから、悪魔の力で悪霊を追い出すなどとんでもない話であった。
「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)とイエス・キリストは言われる。イエス・キリストにおいて神の国は既に来ている。イエス・キリストは今も生きて働いておられる。悪霊の支配に苦しむ者を今も救っておられる。私達の祈りに耳を傾け、私達を憐れみ、御業を行って下さる。