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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 マタイによる福音書25章1~13節

聖書研究 マタイによる福音書25章1~13節(新共同訳 新約p.49)

(1) 花婿を迎える準備をする10人のおとめ(1~5節)

 イエス・キリストは当時の婚宴を背景に天の国について語られた。当時パレスティナでは、結婚式は短くても数日、長い時には1週間にわたって行われた。そして、結婚式は、花婿が花嫁の家に行き、花嫁を自分の家に連れて来ることでクライマックスを迎えた。その際、花嫁の付添人は、夜道でともし火を灯し、婚宴が行われる花婿の家へと花嫁を導く役割を与えられていた。「十人のおとめ」もそのために花婿が来るのを待っていた(1節)。
 ところが、「花婿の来るのが遅れた」(5節)。花婿は花嫁を迎えに行く前に、花嫁の親族に贈り物――多くの場合、結婚持参金――をしたが、そのことで花婿と花嫁の家族の間にいざこざが起こることがあったようである。花嫁の付添人は、そのような事態に備えて、ともし火のための油を十分に用意しておかなければならなかった。この時、賢い5人のおとめは「ともし火と一緒に、壺に油を入れて待っていた」(4節)。ところが、愚かな5人のおとめは「ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった」(3節)。
 このたとえ話が語ろうとしていることは、花婿が来るまでの間、眠っていたか、目を覚ましていたかではない。「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(5節)とあるように、愚かなおとめだけでなく全員が眠っていた。ここで問われているのは、いつ花婿が来てもいいように、彼女達が油を十分に準備していたかどうかであった。それ故、賢いおとめも眠っていたことは、「目を覚ましていなさい」(13節)というイエス・キリストの言葉と矛盾しているわけではない。

(2) 花婿の到着(6~13節)

 待ちに待った花婿が真夜中に遂に到着した(6節)。眠っていた10人のおとめに「花婿だ。迎えに出なさい」という声が聞こえてきた。この時、賢いおとめは油を十分用意していたので、ともし火を灯し続けることが出来た。しかし、愚かなおとめはそうすることが出来なかった(8節)。愚かなおとめは、賢いおとめに「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」(8節)と頼んだ。しかし、賢いおとめは「分けてあげるほどはありません」と答え、自分達で店に買いに行くよう勧めた(9節)。暗い夜道を通って婚宴が行われる花婿の家まで安全に導くためには、ともし火が必要不可欠であった。そして、途中で油が尽きてしまうことは身の危険に関わることであった。
 しかし、愚かなおとめが油を買いに行っている間に、婚宴が行われている家の戸が閉められた(10節)。遅れて到着した愚かなおとめは「御主人様、御主人様、開けてください」(11節)と頼んだ。それに対し、花婿は「わたしはお前たちを知らない」(12節)ときっぱりと断った。彼の態度は一見とても冷淡に思われる。しかし、彼女達は自分に与えられた役割を果たさなかったため、この婚宴とは何の関係もない者になってしまったのである。
 興味深いことに、このたとえで愚かなおとめが「御主人様、御主人様(κύριε [kyrie])」と花婿を呼んでいることは、7章22節で「不法を働く者ども」が「主よ、主よ(κύριε [kyrie])」と言っていることに似ている。それに対し、イエス・キリストが「あなたたちのことは全然知らない」(同23節)と答えられることも、このたとえと似ている。また、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(13節)というイエス・キリストの勧めは、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」(24章42節)というイエス・キリストの言葉に対応している。
「十人のおとめ」のたとえは、イエス・キリストの来臨が遅れている状況を描いている。イエス・キリストの来臨が遅れているとしたら、それは「一人も滅びないで皆が悔い改めるよう」「忍耐しておられる」ためである(ペトロの手紙二3章9節)。そして、このたとえの核心は、イエス・キリストが再び来られる日を待ち望みつつ、それに備えて生きていくことにある。
 イエス・キリストがいつ来られるのか、私達は誰も知らない。だからこそ、イエス・キリストがいつ来られても、問題なく迎えられるよう、私達はイエス・キリストの教えを忘れず、心と人生を尽くしてイエス・キリストに従うことを求められている。そして、イエス・キリストが再び来られた時、イエス・キリストがお命じになったことに私達がどれだけ従順であったかを問われる。14節以降の「タラントン」のたとえではそのことが取り上げられている。