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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 マタイによる福音書26章17~30節

聖書研究 マタイによる福音書26章17~30節(新共同訳 新約pp.52-53)

(1) 過越の食事をする(17~25節)

 イエス・キリストは弟子達に過越の食事の準備をするよう指示された(18節)。過越祭は、主なる神がエジプトの全ての初子を撃たれた時、小羊の血を家の入口に塗ったイスラエルの民の家だけは過ぎ越したという出来事に由来し(出エジプト記12章21~27節)、イスラエルの民が主なる神の裁きから守られたこと、エジプトから解放されたことを記念する祭りである。「除酵祭」(17節)は、過越祭に続いて1週間守られるユダヤ教の祭りで、パン種を入れないパンを食べたことからこの名が付いた。イエス・キリストは「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)として来られた。そして、犠牲の生贄として殺される時が迫っていた。
「夕方になると」、イエス・キリストは12人の弟子達と一緒に食事の席に着かれた(20節)。過越の食事は一般的に夜に行われた(出エジプト記12章8節)。
 食事の席でイエス・キリストは自分が弟子達のうちの一人によって裏切られると語られた(21節)。この言葉を聞いた弟子達は「非常に心を痛め」、「主よ、まさかわたしのことでは」(22節)と代わる代わる尋ねた。「まさかわたしのことでは」と訳されているギリシア語(Μήτι ἐγώ εἰμι [Mēti egō eimi])は、否定を期待する質問で、彼らがイエス・キリストの言葉を聞いて少なからず狼狽したことを示唆している。また、「心を痛めて」と訳されているギリシア語(λυπούμενοι [lypoumenoi])は、「非常に悲しむ」「悲嘆にくれる」「分解する」という意味の動詞(λυπέω [lupeó])の分詞である。イエス・キリストと3年間寝食を共にし、これからも仕えていこうと考えていた弟子達にとって、イエス・キリストが売り渡されること、しかもそれが弟子の中の誰かによってなされることは、非常に衝撃的なことであり、耐え難い悲しみであった。そして、自分がその裏切り者になるのではないかと心配した。
 しかし、イエス・キリストはここで「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」(24節)と言われている。即ち、主導権は、陰謀を企んだユダヤ教の指導者や彼らに同調して裏切った弟子ではなく、イエス・キリストにある。私達を救う新しい契約を成就するために、十字架の死は必ず進まなければならない道であった。
 とはいえ、定められた道であるからと言って、イエス・キリストを売り渡すイスカリオテのユダに責任がないわけではない。そのことは「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(24節)というイエス・キリストの言葉によって明言されている。「生まれなかった方がよかった」というのは悲劇的な人生を表す際に用いられた表現である(ヨブ記3章2節、10~11節)。ユダはそれほどの重い罪を犯そうとしていた。それに対し、ユダは「先生、まさかわたしのことでは」と言った。このユダの言葉はマタイによる福音書にだけ記されている。イエス・キリストはユダに「それはあなたの言ったことだ」と答えられた(25節)。
 ユダの裏切りは、仕方がなかったことでも、すべくして行ったことでもない。ユダは自らの意志でイエス・キリストを売り渡したのである。しかし、イエス・キリストは、ご自分を裏切ろうとしていたユダに胸を痛め、心から憐れまれた。このイエス・キリストの言葉には、主なる神のご主権と人間の責任が共に表されている。

(2) 主の晩餐(26~30節)

 イエス・キリストは、パンを取って、賛美の祈りを唱え、弟子達に「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われた(26節)。また、ぶどう酒が入った杯を取り、感謝の祈りを唱え、弟子達に「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(27~28節)と言われた。
 旧約の時代、イスラエルの祖アブラハムは動物を屠って、その血を注ぎかけることによって、主なる神との契約を締結した(創世記15章1~11節)。イスラエルが律法を守り、主なる神との契約に忠実である時、イスラエルを大いなる民とし、諸民族の祝福の源とするという主なる神がイスラエルを召された目的は成就される。しかし、イスラエルは絶えず不従順であった。そのため、紀元前587年にバビロンによってエルサレム神殿は破壊され、民は捕囚として連行され、約束の地は荒廃した。
 この絶望の中でイザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった預言者は契約の回復の希望を叫んだ。彼らは、この契約を土台とした新しい時代の到来、神殿の回復、自分達の地の回復、律法の回復などを告げた(エレミヤ書31章31~40節)。これこそイスラエルが期待した神の国の到来であった。
 イエス・キリストは、ご自分の死について、旧約の預言者が告げた新しい契約が成就するための生贄の死であることを示された。動物の血によって結ばれた古い契約は、イエス・キリストの死によって結ばれる新しい契約を予め示したものであった。十字架上でイエス・キリストが流された血潮は、滅ぶべき者であった私達に救いの道を開き、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」(ヘブライ人への手紙9章14節)して下さる。