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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書15章11~32節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書15章11~32節(新共同訳 新約pp.139-140)

(1) 罪人が立ち返るのを待つ主なる神(11~24節)

 イエス・キリストは、「見失った羊」や「無くした銀貨」のたとえにおいて、「ファリサイ派の人々や律法学者」(2節)に、主なる神は見失ったものを必死で捜す人間のような方であると語られた。「放蕩息子」のたとえにおいても、イエス・キリストは、主なる神を、放蕩息子を待ち続ける父親のような方、即ち罪人が立ち返ることを切に願っておられる方として示された。
 下の息子は父親から「財産の分け前」を貰うと(12節)、それを全部金に換えて、「遠い国」に旅立った(13節)。しかし、「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いし」(13節)、「何もかも使い果たし」(14節)てしまった。「食べるにも困」(14節)った彼は、ユダヤ人が汚れた動物と見なしていた「豚の世話」をしなければならなくなった(15節)。彼は「豚の食べるいなご豆」さえ食べることが出来ず(16節)、父親の「大勢の雇い人」よりも悲惨な状況に落ちた(17節)。これは天の父から離れた人間の悲惨な状況を示している。
 息子は父親から離れ、「飢え死にしそう」になって初めて、自分の罪を自覚した(17節)。そして、父親のもとに戻ることにした(20節)。父親は息子が帰って来るのを切に待っていた。それ故、息子を見つけると「走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。これは当時の慣習ではあり得ない行動であった。また、息子は、自分は父親に対して罪を犯し、息子と呼ばれる資格はないので、「雇い人の一人」に加えて欲しいと願っていた(18~19節、21節)。しかし、父親は彼を再び息子として受け入れた(22節)。父親は息子が「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(24節)と心から喜んだ。

(2) 喜ぶのは当たり前ではないか(25~32節)

 父親が帰ってきた息子を迎え入れ、「祝宴を始めた」(24節)ことを知ると(25節)、兄は非常に腹を立てた(28節)。兄は自分の弟のことを「あなたのあの息子」と呼び、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来」たと批判した(30節)。そして、自分は「何年もお父さんに仕え」、「言いつけに背いたことは一度も」ないのに、自分が「友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった」と不平を述べた(29節)。それに対し、父親は兄に「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(31節)と告げた。
 私達もこの兄のように他の人と自分を比べ、自分の優劣を考えてしまうことがある。自分の方が優れていると判断したら、他の人を見下し、傲慢に陥る。また、信仰者であれば、自分はこれだけやっているのだから、主なる神からもっと評価され、良い待遇を受けて然るべきであると考えることもあるかも知れない。しかし、それは誤った自己認識である。
 全ての人間は主なる神の裁きを受けなければならない罪人である。私達は主なる神の恵みによってのみ救われる。イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ罪の赦しを受けることが出来る。救いは私達の行いに対する報いとして与えられるものではない。主なる神の御前で自分の行いを誇ることは出来る者は誰もいない。それ故、傲慢になって他の人を蔑むようなことがあるとしたら、私達は悔い改める必要がある。