Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書16章1~13節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書16章1~13節(新共同訳 新約p.140)

(1) 「不正な管理人」のたとえ(1~8節)

 イエス・キリストは、「不正な管理人」(8節)のたとえを通して、この世の知恵からも学ぶべきことがあると教えられた。
 この管理人は、「主人の財産を無駄遣いしている」(1節)のがばれ、解雇されることになった(2節)。失業を目前にした彼は「主人に借りのある者」の債務を独断で軽減した(5~7節)。彼らに恩を売ることによって、「管理の仕事をやめさせられ」た後、「自分を家に迎えてくれるような者たちを作」ろうと考えたのである(4節)。
 それに対し、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8節)。主人は管理人が行ったこと自体をほめたわけではない。それはやはり正しくないことである。主人は管理人が間もなく訪れる事態に賢く備えたことをほめたのである。
 やがて訪れる裁きに備えようとしない「光の子ら」は、「この世の子ら」から学ぶ必要がある(8節)。もし光の子らが裁きにきちんと備えるならば、彼らの知恵はこの世の子らの知恵に優っている。

(2) 神と富(9~13節)

 イエス・キリストは、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」(10節)と言われ、「不正にまみれた富」であっても「忠実」に賢く用いるよう教えられた(11節)。キリスト者は主なる神から「管理人」として生きることを求められている。管理人は所有者ではない。所有者である主なる神から管理を任された者である。
 ここでイエス・キリストは「不正にまみれた富」を「本当に価値あるもの」(11節)と対比されている。「本当に価値あるもの」とは、「永遠の住まい」(9節)、即ち「天に積」まれた「尽きることのない富」である(12章33節)。それに対し、「不正にまみれた富」とは、不正な手段をもって得た富ではなく、この世における有限な富と理解することが出来る。そのような富であっても、私達は主なる神のために賢く用いなければならない。
 管理人の務めは所有者の意図と目的に従って富を正しく使うことである。万物の主である神だけを愛し、仕える時、私達は富の奴隷ではない(13節)。この世における富を主なる神の栄光のために用いる者を、主なる神は「永遠の住まい」へと迎え入れて下さる。