Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書16章14~31節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書16章14~31節(新共同訳 新約pp.141-142)

(1) 律法と神の国(14~18節)

 イエス・キリストが、「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(9節)よう、主なる神から任された富を主なる神に忠実に用いるよう教えられた時(10~11節)、ファリサイ派の人々から「あざ笑」(14節)われた。キリスト者も、イエス・キリストに従って生きようとする時、嘲りを受けることがある。
 ファリサイ派の人々は、律法を忠実に守っているように見えたので、人々から尊敬されていた。しかし、心の内では「金に執着」(14節)していた。
 イエス・キリストは「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」(15節)と言われた。主なる神は偽善や貪欲を憎まれる。
 イエス・キリストは、「律法と預言者」はバプテスマの「ヨハネの時まで」で、「それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」(16節)と宣言された。
 その一方で、イエス・キリストは、「律法の文字の一画」も「なくなる」ことはないとも言われた(17節)。それ故、律法を忠実に守り、主なる神と隣人を愛することに力を尽くすよう求められた(18節)。偽りの心では律法を守ることは出来ない。神の国の福音だけが、律法を完全に守る真の道である。

(2) 金持ちとラザロ(19~31節)

「金持ちとラザロ」の喩えは、金持ちを批判し、貧しい人を美化するものではない。また、私達の死後について教えることを目的としたものでもない。イエス・キリストは、この世と死後を克明に対照することで、私達がどのような姿勢で今この世を生きるべきかについて教えられた。
 或る金持ちが「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)。彼の家の「門前に」は「ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわ」っていた(20節)。しかし、彼はラザロには全く関心を示さなかった。その後、ラザロも金持ちも死んだ(22節)。
 この金持ちは死ぬと「陰府で」(23節)苦しみを受けることになった。その時、貧しかったラザロが「宴席でアブラハム」の「すぐそばにいる」のを見た(23節)。
 生前には全く眼中になかったラザロに、この金持ちは漸く注目した。また、自分の兄弟が彼と同じ苦しみを受けることがないよう、「わたしの父親の家にラザロを遣わしてください」(27節)とアブラハムに願った。しかし、彼の願いは聞かれなかった(29~31節)。死後に悟っても遅い。今生きている場所で私達は真理を見出さなければならない。