Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書17章1~10節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書17章1~10節(新共同訳 新約p.142)

(1) 兄弟に対する戒めと赦し(1~4節)

 イエス・キリストは、兄弟に「つまずき」――相手を罪に陥れること、イエス・キリストを否認させること、信仰をなくすような言葉を口にすることなど――を与えることを避けなければならないと警告された。罪ある私達には兄弟に一つの躓きも与えないということは不可能である(1節)。しかし、兄弟が罪に陥らないよう、言動に気を付けることは出来る。兄弟に躓きを与えるよりも「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(2節)とイエス・キリストは言われる。
 その上で、イエス・キリストは、兄弟が罪を犯した場合、まず戒めることを教えられた(3節)。戒めは、或る言動を止めさせる断固とした警告であり、罪を避けさせることを目的としている。そして、兄弟が罪を悔い改めたならば、赦すことを求められた(3節)。イエス・キリストは弟子達に「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(4節)とお語りになった。「七回」は、文字通りの意味というよりも、「いつも」「繰り返し」「限りなく」赦すということである。
 赦すことのない戒めは兄弟を却って頑なにし、戒めることのない赦しは兄弟を罪の中に留まらせることへと陥り易い。戒めと赦しのバランスを上手く取ることが必要である。戒めと赦しのバランスを上手く取る時、私達は兄弟を生かし、健全な信仰共同体を形成することが出来る。

(2) 僕としての態度(5~10節)

 弟子達はイエス・キリストに「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と願った。限りなく赦すというイエス・キリストの教えを実践することは、自分達には極めて難しいと感じたからだろう。しかし、イエス・キリストは寧ろ「からし種一粒ほどの信仰があれば」(6節)、人間には考えられないことさえ出来ると語られた。そして、それをして下さるのは主なる神である。
 イエス・キリストは、御言葉に従い、兄弟に対する愛と赦しを実践しなければならないことを、僕が仕えることを例に挙げて説明された。当時僕の仕事は、耕作、牧畜、家事、食事の用意など多岐に亘っていた。僕は一日中畑を耕し、疲れて帰って来ても(7節)、主人のために「夕食の用意をし」、主人が「食事を済ますまで給仕」しなければならなかった(8節)。そして、主人は、僕が命じたことをきちんとしたからと言って、僕に感謝することはない(9節)。僕も自分の立場を知っているので、主人に褒め言葉や特別な報いを期待しない。
 イエス・キリストは弟子達にも「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と語る謙遜と従順を期待された。主なる神は私達のために独り子さえ与えて下さった。私達が為すべき務めを果たしたからと言って、主なる神に感謝を求めることは僕としての態度ではない。