Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書17章11~21節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書17章11~21節(新共同訳 新約pp.142-143)

(1) 重い皮膚病を患っている10人の人を癒す(11~19節)

「重い皮膚病を患っている十人の人」(12節)が、イエス・キリストの言葉に従い、「祭司たちのところに」行く途中で癒された(14節)。
 しかし、「大声で神を賛美しながら戻って来」(15節)て、「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」のは、一人のサマリア人だけだった(16節)。彼は、自分の身に起こったことが主なる神の恵みであることを告白し、主なる神をほめたたえたのである。感謝は自分が受け取った恵みを認める行為である。
 イエス・キリストはこのような人を喜ばれる。イエス・キリストが「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」(17節)と訊かれたのは、全てに主なる神を認め、主なる神に栄光を帰することが大切であると教えるためであった。
 特に、イエス・キリストは、ここで「この外国人」が「神を賛美するために戻って来た」ことを強調されている(18節)。神の国の民は主なる神に感謝する者である。主なる神の恵みに最も相応しい応答は、主なる神への感謝である。

(2) 神の国が来る(20~21節)

 ローマ帝国の支配の下にあって、当時多くのユダヤ人が「神の国はいつ来るのか」に関心を抱いていた。ファリサイ派の人々も気になって、イエス・キリストに「神の国はいつ来るのかと尋ねた」(20節)。神の国は、主なる神が統治される領域、主なる神の王権などを意味する。彼らは主なる神が遣わしたメシアによって神の国が目に見える形で実現すると信じていた。
 それに対し、イエス・キリストは、「神の国は、見える形では来ない」(20節)と言われ、神の国に対するファリサイ派の人々の認識が間違っていることを指摘された。
 その上で、イエス・キリストは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(21節)と言われた。神の国は、「ここにある」「あそこにある」(21節)と言える仕方で来るのではなく、私達の「間に」見えない形で臨む。しかし、「あなたがたの間にある」というイエス・キリストの言葉は、神の国が既に始まっていることを示している。イエス・キリストを主として受け入れ、主なる神のご支配に服従する時、私達は神の国を経験することが出来る。そして、神の国は今も力強く、引き続き広がっている。