Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書17章22~37節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書17章22~37節(新共同訳 新約p.143)

(1) 人の子が現れる日(22~33節)

 イエス・キリストは、時が来ると臨む「人の子の日」(22節)について語られた。イエス・キリストは、「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」(23節)と言って、人の心を揺さぶり惑わす人々に警戒するよう教えられた。特に、人の子が現れる日を特定する偽預言者に注意しなければならない。
 その一方で、その日を目前にしても、人々は、「ノアの時代」や「ロトの時代」のように(26節、28節)、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」(27節)、「買ったり売ったり、植えたり建てたり」(28節)する日常に深く浸っているとイエス・キリストは指摘された。これは日常生活が無意味であるという意味ではない。ただそれだけに関心を持つことが誤りであるということである。
 今の日常生活がいつまでも続くと考え、それに没頭する時、突然主なる神の裁きが来る。だから、私達は日常生活においてもイエス・キリストを最優先とし、イエス・キリストに従わなければならない。
「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つ」(33節)とイエス・キリストは言われた。ここで「命」と訳されているギリシア語ψυχή [psuché]は、「魂」「生命」などと訳され、一時的な生命と永遠の命の両方を意味する。この世の一時的な価値のためにイエス・キリストを捨てる人は自分の魂を失うが、イエス・キリストと福音のために自分を否定し、命さえ犠牲にする人は、永遠の命を得る。イエス・キリストのために献げるものはどれほど小さくてもなくなることはない。私達がそのような生き方をする時、「人の子の日」は祝福となる。

(2) 連れて行かれる人と残される人(34~37節)

「人の子の日」には明らかな区別と区分がある。私達が今生きているこの世がいつまでも続くわけでも、今私達の隣にいる人がいつまでも隣にいるわけでもない。イエス・キリストはこのことを喩えをもって語られた。「その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される」(35節)。
 私達は、現在の秩序に慣れているため、今の状態がいつまでも続くことが正常であると考える。しかし、全てが急変する時がやって来る。だから、目に見えるものだけに焦点を合わせて生きていてはいけない。変わらない真理であられるイエス・キリストを見上げ、イエス・キリストと共に歩まなければならない。全世界の秩序が変わろうとも、イエス・キリストは永遠である。