Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書18章1~14節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書18章1~14節(新共同訳 新約pp.143-144)

(1) 「やもめと裁判官」のたとえ(1~8節)

 イスラエルにおいて裁判官は「みなしごの父となり/やもめの訴えを取り上げてくださる」(詩編68編6節)主なる神の代理人となるべき者であった。
 しかし、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」(2節)は、やもめの置かれた不当な事情には何の関心もなかった。ただこのやもめが自分を「さんざんな目に遭わすにちがいない」と思い、「彼女のために裁判をしてや」ることにした(5節)。
「不正な裁判官」(6節)とは異なり、神は正しい方であり、「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁判を行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれること」(7節)のない方である。主なる神にとってキリスト者は「選ばれた人たち」である。主なる神は、愛する子が求めるならば、「良い物を与える」ことを願われる天の父である(11章9~13節)。
 その一方で、イエス・キリストは、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)と言われている。自分の願いだけを求めることは、神の子とされた者がなすべき祈りではない。また、私達が祈り求めても、すぐに聞かれないのは、主なる神が「万事が益となるように共に働」(ローマの信徒への手紙8章28節)いて下さるためである。だから、イエス・キリストが来られる時まで、「気を落とさずに」、忍耐をもって主なる神の御心を「絶えず祈」り求めよう(1節)。

(2) 「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ(9~14節)

 神殿は、敬虔な「ファリサイ派の人」にとっては慣れ親しんだ場所であり、罪人と見なされた「徴税人」にとっては非常に行き難い場所であった(10節)。しかし、イエス・キリストは、両者が神殿で祈りを献げた時、「義とされて家に帰った」のは、ファリサイ派の人ではなく徴税人の方であると言われた(14節)。
 ファリサイ派の人の祈りは、自分の義を誇り、高ぶりで満ちていた。彼は、自分が「ほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者」姦通を犯す者」(11節)でなく、「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げて」(12節)いる自分の熱心さを誇った。それは主なる神が入り込む隙のない祈りであった。
 それに対し、徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈った(13節)。主なる神が贖いの恵みをもって覆って下さらなければ、彼は死ぬしかない。主なる神は彼の全てであった。
 主なる神の御前で自分の義を主張することの出来る人は誰もいない。祈りは主なる神に自分の全てとなっていただくよう願い求めることである。