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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書18章18~30節

聖書研究 ルカによる福音書18章18~30節(新共同訳 新約pp.144-145)

 イエス・キリストのもとに「ある議員」(18節)がやって来た。彼はイエス・キリストに「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(18節)と尋ねた。イエス・キリストは、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(20節)とお答えになった。この議員は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(21節)と自信をもって述べた。それに対し、イエス・キリストは「あなたに欠けているものがまだ一つある」と指摘された。そして、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と求められた(22節)。「大変な金持ち」であった彼は、イエス・キリストの言葉を聞いて、非常に悲しんだ(23節)。
 イエス・キリストは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(24~25節)と言われた。この議員の問題は、富を沢山持っていたことではなく、富が偶像になっていたことであった。貧しいラザロを助けなかった金持ちも同様であった(16章19~25節)。イエス・キリストは弟子達に「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(同13節)と教えられた。
 主なる神の御前で一つでも欠ける所があったら救われない。そして、私達の目には完全無欠のように見える人間であっても、何らかの欠けが存在する。主なる神は絶対的に聖い御方であられる。だから、律法を一つでも守れていない人間を見逃すことが出来ない。もし私達の罪を大目に見るとしたら、自ら律法を破り、法秩序を破壊することになってしまう。私達は自分の力で律法を全て守ることは出来ない。私達の善い行いも主なる神の基準を満たすものとして受け入れられることは絶対にない。私達は自分の力で永遠の命を受け継ぐことは出来ない。
 とはいえ、それでは誰一人救われないということになってしまう。人々は「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)と問いを発さずにはいられなかった。それに対し、イエス・キリストは「人間にはできないことも、神にはできる」(27節)と言われた。主なる神は私達を憐れんで、御子イエス・キリストを送って下さった。イエス・キリストは、完全な人間であり、同時に神であられる。イエス・キリストは、律法を完全に遵守し、主なる神の基準を満たされた。更に、私達の罪を自らの身に負って、十字架で私達の代わりに殺され、そして復活された(32~33節)。そのことによって不完全である私達が主なる神に受け入れられる道が開かれた。
 イエス・キリストは、金持ちの議員に「そうすれば、天に富を積むことになる」とは言われたが、「そうすれば、永遠の命を受け継ぐことが出来る」とは言われなかった。ただ主なる神の恵みだけが私達を救うことが出来る。完全な人間であり、同時に神であられるイエス・キリスト以外に救われる道は存在しない。
 それ故、イエス・キリストは私達に信仰と従順を求められる。イエス・キリストに従う者は、この世においては自分が捨てたものの何倍もの報いを受けることが出来、更に後の世においては永遠の命を与えられる(30節)。そして、イエス・キリストへの従順も自分の力で出来ることではない。ペトロはイエス・キリストに「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」(28節)と述べている。しかし、イエス・キリストを信じ従うことが出来るのも、恵み深い主なる神の御力による。主なる神の恵みによって神の国の素晴らしさを知らされる時、私達は「家、妻、兄弟、両親、子供」よりも、イエス・キリストを優先し、イエス・キリストに従う者とされる(29節)。