Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書18章31~43節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書18章31~43節(新共同訳 新約pp.145-146)

(1) 受難と復活の予告(31~34節)

 イエス・キリストは、「人の子について預言者が書いたこと」が「みな実現する」ために「エルサレムへ上って行く」ことを弟子達にお語りになった(31節)。その上で、エルサレムで「異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ」(32節)、鞭で打たれて、殺されることを予告された(33節)。
 イエス・キリストが十字架で苦しみを受けられたのは、私達の罪の故である。イザヤが預言したように、イエス・キリストは「わたしたちの背きのため」に「刺し貫かれ」、「わたしたちの咎のため」に「打ち砕かれ」た(イザヤ書53章5節)。そのことを知る時、私達は自分に対するイエス・キリストの愛と恵みを理解することが出来る。私達の罪を解決する方法はイエス・キリストの十字架の贖い以外にはない。そして、十字架の死をもって全てが終わりではない。イエス・キリストは「三日目に復活」(33節)される。
 この後エリコの盲人が叫び続けたように、イエス・キリストは「ダビデの子」として神の国を建てられる方である。そして、人間に救いを与え、神の国に入れるようにする主なる神の御業は、イエス・キリストの十字架と復活を通してなされた。十字架と復活を通して、神の国は到来し、イエス・キリストを主と信じる者は救われる。
 だが、この時の弟子達はイエス・キリストが何故苦しみを受けなければならないのかを理解出来なかった(34節)。彼らもイエス・キリスト神の国を建てられることを期待していた。しかし、イエス・キリストが十字架の苦難を受けられることによって、旧約の預言が全て成就し、神の国がもたらされるなどとは想像もしていなかった。イエス・キリストが苦しみを受けて殺されるなどということは、彼らにとって到底受け入れられるものではなかった。イエス・キリストが復活され、弟子達に現れた時、彼らは初めてイエス・キリストの言葉を悟ることが出来た(24章)。
 主なる神の救いのご計画とイエス・キリストの働きを理解し、聖書の真理を悟るためには、イエス・キリストの十字架と復活の意味をまず知る必要がある。それなくしては、私達に対するイエス・キリストの愛と恵みを知ることも出来ない。

(2) エリコの盲人の癒し(35~43節)

 イエス・キリストがエリコに近づかれた頃、一人の盲人が道端に座って物乞いをしていた(35節)。
 イエス・キリストが自分の近くを通られると聞くと(37節)、盲人は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(38節)と叫び始めた。イエス・キリストに同行していた人々は、叱りつけて盲人を黙らせようとした。しかし、彼は「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」とますます叫び続けた(39節)。
 盲人の切なる叫びはイエス・キリストの歩みを止めた。イエス・キリストが盲人に「何をしてほしいのか」と尋ねると、彼は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えた(41節)。それに対し、イエス・キリストは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」(42節)と言われた。彼は忽ち見えるようになり、主なる神を讃美した。信仰を持って主の御名を呼び求める者は誰でも救われる(ローマの信徒への手紙10章13節)。
 盲人の癒しは神の国の到来に関する証拠の一つである(4章18節、イザヤ書35章5節)。また、盲人がイエス・キリストを「ダビデの子」と呼び、目が見えるようになったことは、その直前に記されている弟子達の霊的盲目と対照的に描かれている。しかし、弟子達もやがて目が開かれ、イエス・キリストの十字架の意味を理解する。
 イエス・キリストは、私達の霊の目を開き、福音の真理を悟らせ、信仰によって神の国へと入れるようにして下さる。私達はイエス・キリストによって目が開かれ、自分の罪深さを知り、その罪のために死んで下さったイエス・キリストの愛と恵みを知る時、初めてイエス・キリストを主として、救い主として信じられるようになる。そして、イエス・キリストに従い、主なる神を讃美する人生を送れるようになる。福音の真理を悟ることが出来るよう、私達もイエス・キリストに「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と求めていこう。