Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書19章11~27節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書19章11~27節(新共同訳 新約pp.146-147)

(1) 良い僕(11~19節)

 イエス・キリストは、「ムナ」のたとえにおいて、ご自分を「王の位を受けて帰るために出発し、遠い国へ旅立」った「立派な家柄の人」に喩えられた(12節)。また、「十人の僕」(13節)は、イエス・キリストから使命を与えられた弟子達、この人を憎み、「我々はこの人を王にいただきたくない」と反対する「国民」は(14節)、イエス・キリストを拒む人々と理解することが出来る。
 このたとえは「タラントン」のたとえと類似している(マタイによる福音書25章14~30節)。しかし、「タラントン」のたとえでは、「一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」と「それぞれの力に応じて」主人の財産が預けられているのに対し、ここでは10人の僕に預けられたのは皆同じ1ムナである。1ムナは、「タラントン」(6000日分の賃金に相当)ほどではないものの、当時の労働者が100日働いて稼ぐ大金であった。私達にはつまらなく思われても、イエス・キリストは全ての人に大きなものを任せられている。
 とはいえ、同じことを任されても、皆が同じ結果を出すわけではない。最初の僕はその1ムナをもって10ムナを(16節)、二番目の僕は1ムナをもって5ムナを儲けた(18節)。しかし、「王の位を受けて帰って来」た主人は、「良い僕だ。よくやった」と彼らをほめ、「お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」(17節)、「お前は五つの町を治めよ」(19節)と言った。
 主人が戻って来るまでの期間は、主人への「忠実」が問われた期間であった。同様に、イエス・キリストが十字架で死なれ、復活し、天に上げられてから再び来られるまでの期間は、私達が「僕」として与えられた使命を果たす期間である。その間、イエス・キリストは私達が「ごく小さな事」にも「忠実」であることを願われる。私達が与えられた時間、才能、富、環境、人間関係を神の国のために最大限活用し、その実をもって主に栄光を帰する時、最後の審判においてイエス・キリストからお褒めの言葉と賞をいただくことが出来る。このことはイエス・キリストに従う者にとって大きな励ましであり、慰めである。

(2) 悪い僕(20~27節)

 一人の僕は主人から預かった1ムナを布に包んでそのまま保管した(20節)。しかし、それは主人の意図ではなかった。主人は「悪い僕だ」(22節)と彼を叱責し、その1ムナも取り上げてしまった(24節)。また、主人は、彼が「王になるのを望まなかった」国民を「あの敵ども」と呼び、裁きを宣言した(27節)。
 彼が悪い僕と評価されたのは、自分に預けられた1ムナを全く活用しなかったからである。この僕は主人に「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」(21節)と弁明している。しかし、この主人が僕のもたらした利益以上の報いを与える恵み深い方であるということを知らなかった。また、主人が見ていたのは僕が最善を尽くす姿勢であった。彼は主人を完全に誤解していた。
 イエス・キリストが王であられることを信じ、喜んで忠実を尽くす者は、更に祝福を受ける。しかし、そうでない者は今持っているものまでも取り上げられる(26節)。また、イエス・キリストを拒む者には将来裁きが臨む。僕である私達は、イエス・キリストがいつ戻って来られるかではなく、自分が任された務めに忠実であるかに関心を持つべきである。イエス・キリストは私達がもたらす利益を欲しがる方ではない。地上の生涯において結果を見ることが出来る場合もあるが、私達の努力が何の実も結んでいないように見えることもある。しかし、イエス・キリストのご栄光のためにしたことは空しく消えることはない。