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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書19章28~40節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書19章28~40節(新共同訳 新約pp.147-148)

(1) 子ろばに乗られた柔和な王(28~35節)

 イエス・キリストはご自身の使命を完成されるために揺れ動くことなく進まれた。イエス・キリストは2人の弟子を使いに出し(29節)、「だれも乗ったことのない子ろば」(30節)を引いて来るように言われた。そして、イエス・キリストの指示通り(31節)、「主がお入り用なのです」(34節)、容易に子ろばを連れて来ることが出来た(35節)。イエス・キリストはその子ろばに乗ってエルサレムに入られた(36節)。
「ムナ」のたとえを通して、イエス・キリストはご自分のことを「王」であると宣言された(12節)。子ろばは王が乗るものとして相応しくないように一見思われる。しかし、イエス・キリストが子ろばに乗ってエルサレムに入城されたことは、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばにのって」というゼカリヤの預言の成就であった(ゼカリヤ書9章9節)。イエス・キリストは、ゼカリヤの預言通り、救いをもたらす柔和な王としてエルサレムに入られた。
 イエス・キリストに従おうとする者は、イエス・キリストの謙遜と平和を学ばなければならない。私達は自己顕示を好む。教会は歴史上、宣教や教会の利得のために金や権力などを恣意的に行使し、どれほど多くの罪を犯してきただろうか。そして、現在もその罪を断ち切れずにいる。イエス・キリストは、ご自分が王であることを、人々に権威と栄光を誇示することによってではなく、愛と義の統治を表す謙遜さをもって示された。個々のキリスト者も教会も団体も、子ろばに乗られたイエス・キリストに倣い、謙って自分を低くし、イエス・キリストから与えられた使命を果たさなければならない。

(2) 王なるイエス・キリストに対する讃美(36~40節)

 イエス・キリストが子ろばに乗ってエルサレムに入られた時、弟子達は子ろばの上に「自分の服をかけ」(35節)た。人々も「自分の服を道に敷」(36節)いて、イエス・キリストを歓迎した。これは王を迎える行為である(列王記下9章13節)。そして、弟子達は「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(38節)と声高らかに主なる神を讃美した。弟子達は「自分の見たあらゆる奇跡」(37節)の故にこれからエルサレムで大いなることが行われるのを期待していた。
 弟子達の歓声はイエス・キリストの使命に対する無知から出たものであった。イエス・キリストは、確かに旧約の預言に従って王として、メシアとしてエルサレムに入られた。しかし、エルサレムでご自分を待つのは苦難であることを知っておられた。それでも、彼らの叫びはこの後に控える十字架の受難が敗北ではなく勝利の道であることを暗示している。イエス・キリストは、十字架にかかって死なれることによって真の平和を成し遂げられる栄光の王である。苦難の中にある時、心が悲しく苦しい時、力の限界を感じる時、勝利の王であられるイエス・キリストを仰ぎ見るならば、イエス・キリストは私達を勝利の道へと導いて下さる。
 ファリサイ派の人々は、弟子達が叫ぶ様子を見て、イエス・キリストに「先生、お弟子たちを叱ってください」(39節)と求めた。しかし、イエス・キリストは「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」(40節)とお答えになった。イエス・キリストに向けられた喜びの叫びと讃美を妨げることが出来る者は誰もいない。