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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章9~18節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章9~18節(新共同訳 新約p.149)

(1) 主人が遣わした僕や息子を拒む農夫(9~15節)

 このたとえにおいて、「ある人」は主なる神、「ぶどう園」は神の国、そこで働く「農夫たち」は、主なる神に敵対するイスラエルである(9節)。その中でも、宗教的な行為によって主なる神を欺こうとした宗教指導者(「律法学者たちや祭司長たち」)の罪は重かった(19節)。イエス・キリストは、このたとえ話を通してご自分の死を予告すると共に、イエス・キリストの殺害を企み、その口実を探していた宗教指導者の欺瞞を指摘された。
 ぶどう園の主人は、収穫を納めさせるために、僕を遣わした(10節)。しかし、農夫達は僕を袋叩きにして追い返した(10~12節)。そこで主人は自分の「愛する息子」(13節)を遣わした。しかし、彼らはその息子を殺し(15節)、ぶどう園を自分のものにしようとした(14節)。主なる神は、敵対するイスラエルに対し、預言者を何度も送り、機会を与え、長い間忍耐された。そして、遂にはご自身の御子イエス・キリストまでも遣わされた。にもかかわらず、彼らは主なる神に背き続けた。そして、主なる神のものであるぶどう園、即ち神の国を自分のものにしようとした。

(2) 神の国の礎となられたイエス・キリスト(16~18節)

 イエス・キリストのたとえを聞いた後、民衆は「そんなことがあってはなりません」(16節)と反論した。「この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与える」(16節)という主人の処置が、とても過酷に聞こえたからだろう。彼らはそのようなことが自分達に起こらないよう願った。しかし、イエス・キリストは、このたとえを通して、主なる神に反逆し、ご自身を拒む人々に警告された。
 ここでイエス・キリストは「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(17節)という詩編118編22節の言葉を引用されている。人々はイエス・キリストを十字架で殺した。しかし、イエス・キリストは、復活し、昇天し、神の国の礎となられた。その一方で、イエス・キリストに敵対した者には、主なる神の裁きと怒りが臨む(18節)。主なる神は、私達にイエス・キリストを主として受け入れ、従い、仕えるよう絶えず語りかけておられる。罪人である私達を長い間忍耐して下さった主なる神の憐れみに縋りつつ、主に従う道を歩んでいこう。