Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章41~47節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章41~47節(新共同訳 新約pp.150-151)

(1) ダビデの子についての問答(41~44節)

 イエス・キリストは、自分を信じないユダヤ教の指導者に対し、ダビデを例に挙げ、ご自身がダビデよりも偉大な主であることを語られた。彼らは「メシアはダビデの子だ」(41節)と信じていた。これは正しい理解である。しかし、メシアは、ダビデの子であると同時に、ダビデの主であられる。ダビデ自身、メシアの祖先であったが、「主は、わたしの主にお告げになった」と告白し(42節、詩編110編1節)、イエス・キリストを「わたしの主」と呼んでいる。
 イエス・キリストは、私達が理解しているよりも偉大な御方である。使徒パウロは、イエス・キリストについて「肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」(ローマの信徒への手紙1章3~4節)方であると述べている。主なる神の独り子であられるイエス・キリストを通して、この世に臨んだ救いは、実に壮大な出来事である。部分的に知っていることをまるで全部知っているかのように錯覚してはならない。自分が知っている部分的な知識に縛られず、完全な知識に到るよう努めるべきである。

(2) 律法学者の偽善を非難する(45~47節)

 イエス・キリストは「民衆が皆聞いているとき」(45節)に外面を飾る律法学者の偽善を非難された。律法学者は、自分の権威を高め、敬虔であるという称賛を受けることに熱心であった。彼らは、豪華な装飾のある「長い衣をまとって歩き回りたがり」、人々から認められることを期待した。また、「会堂では上席、宴会では上座に座ることを好」み、人々からもてなされることを喜んだ(46節)。更に、祈る時には「見せかけの長い祈り」をしたが、実際に助けを必要としていた貧しいやもめに対しては無関心であるどころか、彼女達から受けるべきものを抜かりなく受け、彼女達の「家を食い物にし」ていた(47節)。
 イエス・キリストは、律法学者のような者について「人一倍厳しい裁きを受けることになる」(47節)と警告された。律法学者は、聖書のことをよく知っており、それを他の人々に教えた。イエス・キリストも律法学者が説く律法の教え自体については守るよう求められた(マタイによる福音書23章1~3節)。しかし、実際の彼らの生き方は主なる神の御心に逆らったものであった。イエス・キリストは主であられるが、仕える僕として世に来られた。イエス・キリストの弟子は、主なる神への正しい知識を持つと共に、謙遜に仕える者として生きることを求められている。