Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章1~9節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章1~9節(新共同訳 新約p.151)

(1) レプトン銅貨2枚を献げる貧しいやもめ(1~4節)

 エルサレム神殿の本殿に入る門の所に「賽銭箱」(1節)が13個置かれていた。イエス・キリストは賽銭箱の向かい側から群衆が献金するのを御覧になっていた(マルコによる福音書12章41節)。金持ちは、お金を入れる音が大きく聞こえるよう、わざと銅貨に換えたりした。お金の音が響くことによって沢山のお金を献げていると褒められるからである。教会においても、ヤコブが誤った考えの例として語ったように(ヤコブの手紙2章1~4節)、この世の有力者が発言力を持っているかも知れない。この世と同じように、富と権力のある人が教会の中でも立てられるとしたら、教会はこの世と変わらなくなってしまう。
 イエス・キリストは「有り余る中から献金した」金持ちよりも「レプトン銅貨二枚を入れ」(2節)た「貧しいやもめ」を「だれよりもたくさん入れた」(3節)と称賛された。彼女は「乏しい中から持っている生活費を全部入れ」(4節)ることによって、主なる神だけに頼り、主なる神に栄光を帰したからである。
 主なる神は全てをご存知であられる。私達は外面を見るが、主なる神は心を御覧になる。主なる神は、私達が心を尽くして仕えることを望んでおられ、私達に聖霊を授け、新しい心を与えて下さる(エゼキエル書36章26節)。頑なで悪い心を持っていた私達をご自分の民とし、その心に律法を記して下さる(エレミヤ書24章7節、31章33節)。主なる神は心を尽くしてご自身を愛することを私達に望んでおられる。

(2) 神殿の崩壊を予告する(5~9節)

 ヘロデ王が再建した神殿は「見事な石と奉献物で飾られて」(5節)いた。人々は雄壮な建物を見て感嘆した(6節)。しかし、イエス・キリストは、神殿の堕落した実状をご存知であったので、寧ろ心を痛められた。「祈りの家でなければならない」神殿が、一部の人間が自分の利益を追求する「強盗の巣」になり果てていたからである(19章46節)。
 イエス・キリストは、神殿の「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(6節)とお語りになり、神殿の破壊を予告された。主なる神は何よりも真の信仰を求められる。どれほど美しく雄壮な神殿であっても、信仰に内実がなければ裁きを免れない。私達の信仰はどうであろうか。真の信仰を失って、表面を装うことにばかり気を遣うようであってはならない。表面的・形式的な信仰は一種の欺きである。それはとても敬虔に見えることさえある。しかし、そのような信仰はいつか必ず本質が表面化する。
 真の信仰の中心はイエス・キリストである。イエス・キリストの他に救い主は存在せず、他のものが人間を救うことはない。イエス・キリストは自分こそが救い主であると名乗る人間に惑わされないよう警告された(8節)。「戦争とか暴動のことを聞」(9節)くと、多くの人が恐れ、その偽りの救い主に付いて行ってしまう。しかし、イエス・キリスト以外の救いを信じることは、真の信仰から離れることであり、形式的な宗教生活への道でもある。イエス・キリストの十字架と復活だけが唯一の救いであるということは「世の終わり」が訪れても変わらない。この福音の真理を心にしっかりと刻み、その上に堅く立とう。