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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章29~38節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章29~38節(新共同訳 新約pp.152-153)

(1) エルサレムの滅亡に備える(29~33節)

 イエス・キリストは、「いちじくの木や、ほかのすべての木」(29節)を例に挙げ、前兆からエルサレムの滅亡の時が近づいたことを悟るよう話された。イスラエルでは春がとても短く、突然夏を迎える。人々は温度の変化を感じなくても、「葉が出始める」のを見て、「夏の近づいたこと」を知る(30節)。同様に、弟子達は前兆を見たら、「神の国が近づいている」(31節)ことを悟る必要があった。エルサレムの滅亡はイエス・キリストが語られた通りに必ず起こるからである(32節)。
 その上で、イエス・キリストを主と信じて従う者は救われる。しかし、イエス・キリストを信じない者は、イエス・キリストを拒絶したエルサレムが滅亡したように裁きを受ける。その意味で、前兆は主なる神の恵みである。前兆を見る時、自分を顧み、その日に備えることが出来るからである。
 今日の教会の世俗化は、裁きに対する感覚の喪失も無関係ではない。裁きを信じなければ、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(コリントの信徒への手紙一15章32節)とこの世の人生が全てであるかのように考え、生きるようになる。この世には終わりがあること、また神の国の完成があることを信じなければならない。

(2) いつも目を覚まして祈る(34~38節)

 イエス・キリストは弟子達に、前兆について語られ、その前兆を通してエルサレムの滅亡に備えるよう教えられた。これはエルサレム滅亡の具体的な日時を予測するということではない。「その日」(35節)は「不意に罠のように」(34節)やって来るので、誰も知ることが出来ない。ただ主なる神だけがご存知である(マタイによる福音書24章36節)。ここでイエス・キリストが求められたのは、前兆を見たら、心を引き締めて生きるということであった。
「人の子の前に立つ」(36節)日が来ることを考えない者は、前兆があっても、それに気付くのが難しい。「放縦や深酒や生活の煩い」によって「心が鈍く」なっているからである(34節)。それ故、イエス・キリストは、主なる神の御心に忠実に生きるために「いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)と言われた。
 それから、イエス・キリストは、「日中は神殿の境内で教え」、夜は「『オリーブ畑』と呼ばれる山」で休まれた(37節)。イエス・キリストエルサレムの滅亡について話された後、民衆はイエス・キリストの話を聞くために「朝早くから」神殿に向かった(38節)。イエス・キリストの言葉を聴くことを通して、私達は「その日」に備えてこの世でどのように生きればよいかを知ることが出来る。私達にも、主なる神の救いの摂理、イエス・キリストの十字架と復活の福音、この世の始まりと終わり、神の国の到来と完成についての主なる神の啓示として聖書が与えられている。