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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章1~13節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章1~13節(新共同訳 新約p.153)

(1) 宗教指導者とユダを通してイエス・キリストを殺そうとするサタン(1~6節)

「祭司長たちや律法学者たち」は、イエス・キリストを「殺すにはどうしたらよいか」考えていた(2節)。民衆がイエス・キリストの「話を聞こう」と「神殿の境内」に集まっていたからである(21章38節)。彼らは以前にも自分達を批判するイエス・キリストを捕らえようとした。しかし、「民衆を恐れ」て実行出来ずにいた(20章19節)。この時も同様であった(2節)。
 そのような中、「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダ」(3節)が彼らを訪ね、「どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた」(4節)。このことによって、彼らは遂にイエス・キリストを捕える機会を得た。「祭司長たちや神殿守衛長たち」(4節)は、「ユダに金を与えること」(5節)を約束し、ユダはこれを承諾した。それからユダはイエス・キリストを「群衆のいないときに」(6節)引き渡す機会を伺った。
 福音書記者ルカは、この時「ユダの中に、サタンが入」(3節)っていたと記している。サタンは、ユダと宗教指導者を通して、イエス・キリストの働きに終止符を打ち、失敗させようとした。サタンは今も歩き回り、私達からイエス・キリストへの信仰を奪い去ろうと狙っている。その際、サタンは私達の思いや考えを支配することによって、私達の行動を支配しようとする。この世で認められ、平穏無事に暮らすために名誉や金に頼るように勧め、イエス・キリストだけに依り頼むのは愚かなことであると思わせようとする。
 教会の歴史においても、サタンは、信仰者を脅したり、疑いを起こしたり、金や名誉などで誘惑したりして、罪を犯させ、教会の中に混乱を引き起こし、教会を倒そうとしてきた。私達は、聖書を通してサタンの道具に転落してしまった人々を見る中で、「いつも目を覚まして祈」(21章36節)らなければならないことを教えられる。「自分は絶対に大丈夫だ」と思っても、私達は弱い。私達は聖霊によって罪の誘惑に打ち勝たなければならない。

(2) 過越の小羊として進まれるイエス・キリスト(7~13節)

 イエス・キリストは、ペトロとヨハネを遣わし、「過越の食事ができるように準備しなさい」(8節)と命じられた。この時、過越祭のために各地から非常に多くの人がエルサレムに来ていた。そのため、食事をする部屋を探すことは容易ではなかった。しかし、弟子達がイエス・キリストの指示通りに行うと、イエス・キリストと弟子達のために「席の整った二階の広間」(12節)が用意されていた。ペトロとヨハネは、イエス・キリストの言葉が成就するのを目の当たりにして、過越の食事を準備した(13節)。
 宗教指導者とユダの結託により、イエス・キリストを殺す陰謀が進展した。しかし、福音書記者ルカは過越の食事を自ら備えられるイエス・キリストの姿を強調する。そのことによって私達は、イエス・キリストの死が他人に諮られたものであるだけでなく、イエス・キリストご自身によって備えられたものであると知ることが出来る。イエス・キリストは「過越の小羊」(7節)として罪人を救うために自らその道を進まれたのである。
 私達はこの世の権力者や指導的な地位・立場にある人間が自分の生殺与奪を握っていると考える。そのため彼らを恐れてしまうこともある。しかし、主なる神が許されなければ、彼らは何もすることが出来ない。この世で権勢を持つ者の上に主なる神がおられる。彼らがすることは全て主なる神の摂理の中にある。だから、私達は、偽りがなく、憐れみ深い主に依り頼まなければならない。