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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章14~23節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章14~23節(新共同訳 新約pp.153-154)

(1) 新しい契約の締結としての主の晩餐(14~20節)

 捕らえられる前夜、イエス・キリストは弟子達と共に過越の食事をされた(14節)。そして、自分がこの時をどれほど願っておられたかを語られた(15節)。イエス・キリストにとってこの食事は「神の国で過越が成し遂げられる」ために十字架で死ぬことへと繋がるものであった(16節)。十字架への道は、イエス・キリストが「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)と祈られたほど困難な道であった。にもかかわらず、人間が罪を赦されて救われ、神の国に入れられるために、イエス・キリストは「過越の小羊」(7節)としてこの苦難の道を自ら進んで行かれた。
 その上で、イエス・キリストは、弟子達と過越の食事をしながら、ご自分が遂げられる十字架の死の意味を明かされた。主なる神に感謝の祈りを献げ(17節、19節、20節)、パンを裂いて与えながら、「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である」(19節)と、またぶどう酒の入った杯を与えながら、「これは、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(20節)と言われた。
 イエス・キリストが人類の罪を贖うために十字架で死なれたことによって「新しい契約」がなされた。イエス・キリストは新しい契約の成就者である。イエス・キリストを主と信じる者は、主の晩餐を通して、イエス・キリストの体と血を象徴するパンと杯に与り、イエス・キリストの十字架の恵みと赦しを「記念」(19節)する。これは信仰告白である。バプテスマは信仰者としての人生の始まりであり、主の晩餐はバプテスマの意味を繰り返し想い起こすことである。

(2) イエス・キリストを裏切る者の不幸(21~23節)

 イエス・キリストは、弟子達と過越の食事をされながら、彼らの中にご自分を裏切る者がいると告げられた(21節)。弟子達は「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのか」分からず、「互いに議論をし始めた」(23節)。しかし、イエス・キリストはそれがイスカリオテのユダであることをご存知であった。私達は心の中で考えていることを他の人には隠すことが出来ても、イエス・キリストには隠すことが出来ない。
 その上で、イエス・キリストは「裏切るその者は不幸だ」(22節)とお語りになった。イエス・キリストは「定められたとおり」(22節)十字架への道を進もうとされていた。ユダはそのようなイエス・キリストにこれ以上従っても仕方がないと見切りをつけたのかも知れない。だが、十字架への道を歩まれたイエス・キリストに復活の栄光があったように、イエス・キリストに従う者は神の国に入る資格を与えられる。ユダはその祝福に与ることが出来ない。イエス・キリストは私達が神の国に入る恵みを受けることを願っておられる。イエス・キリストに従い、神の国を望みながら喜びをもって歩んでいこう。