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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章39~53節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章39~53節(新共同訳 新約pp.155-156)

(1) 天の父の御心を求めるイエス・キリスト(39~46節)

 イエス・キリストは、弟子達と共に「いつものようにオリーブ山に行」き、祈りを献げられた(39節)。そして、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)と祈られた。イエス・キリストにとって十字架の死が耐え難かったのは、十字架が肉体的に過酷な刑だからだけではない。自分が負わなければならない人類の罪が余りにも重かったからである。熱心に祈られる余り、「汗が血の滴るように地面に落ち」(44節)るほどであった。
 それにもかかわらず、イエス・キリストは「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)と最後まで天の父に従われた。イエス・キリストは、天の父がこの世を愛し、人間を救うことを願われて、自分を遣わされたことを知っておられた(ヨハネによる福音書3章16節)。それ故、十字架を負うことがどれほど苦しくても、天の父の御心に従うことを願われた。そのことによって、ご自分の愛を余すところなく示された(同13章1節)。天使も「天から現れて」、イエス・キリストを力づけた(43節)。
 一方、弟子達は、「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40節)というイエス・キリストの言葉に従うことが出来ず、深く眠り込んでしまった。私達はどうだろうか。誘惑に陥らず、天の父の御心に従うためには祈りが必要である。天の父の助けがなければ、私達は試練や誘惑に勝つことは出来ない。

(2) ご自分を引き渡されるイエス・キリスト(47~53節)

 イスカリオテのユダは、イエス・キリストがオリーブ山で祈られる時を引き渡す機会と考え、イエス・キリストを捕える人々を連れて来た(47節)。その際、ユダが接吻することによって誰がイエス・キリストであるかを示すことになっていた(マルコによる福音書14章44節)。イエス・キリストは、全てをご存知でありながらも、ユダに「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」(48節)とだけ言われた。
 また、イエス・キリストが捕えられると、ペトロがマルコスという「大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした」(50節、ヨハネによる福音書18章10節)。それに対し、イエス・キリストは「やめなさい。もうそれでよい」と言って、剣を納めるよう命じられた。そして、自分を捕えに来た者の耳を癒された(51節)。
「祭司長、神殿守衛長、長老たち」(52節)は、民衆がいない時を狙って、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来」(52節)た。彼らはイエス・キリストを捕える機会をずっと狙っていた。しかし、民衆を恐れて(2節)、イエス・キリストが「毎日、神殿の境内」(53節)で教えておられた時にはそれが出来ずにいた。イエス・キリストの弟子の一人と結託したことによって捕縛が可能となった。
 それに対し、イエス・キリストは「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53節)と言われた。以前人々は「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(11章15節)とイエス・キリストを非難したことがあったが、今や自分達がサタンの僕となっていた。
 一方、イエス・キリストが捕えられたのは、イエス・キリストに力がなかったからではない。イエス・キリストは「十二軍団以上の天使」(マタイによる福音書26章53節)を呼ぶこともお出来になる方である。私達は、弟子に裏切られ、宗教指導者によって捕えられるイエス・キリストを見て、サタンが全てを支配し、イエス・キリストもそれに勝つことが出来ないかのように考えてはならない。寧ろイエス・キリストは、天の父の御心に従うことを願われたから、ご自身をサタンに引き渡された。
 私達はイエス・キリストが十字架を負うことによって示された天の父の愛と忍耐を悟り、より深く心に刻む必要がある。イエス・キリストの愛と忍耐が私達を救った。だから、私達も愛と忍耐をもって隣人を受け入れなければならない。そのためにもイエス・キリストの十字架を常に仰ぎ見よう。