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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章63~71節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章63~71節(新共同訳 新約p.156)

(1) 侮辱され、殴られるイエス・キリスト(63~65節)

 イエス・キリストは、何の罪もないのに捕えられ、大祭司の家で不当な扱いを受けた。「見張りをしていた者たち」は、イエス・キリストを侮辱したり、殴ったりした(63節)。これはイエス・キリストが前もって予告されたことがその通りに成就していることを示している(18章32節)。全てのことは主なる神のご計画の中にある。
 また、彼らは目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」(64節)と罵った。それを言い当てること自体は、イエス・キリストにとって他愛もないことである。主であられるイエス・キリストは、悪霊も病気も湖の魚も鶏の鳴き声も統べ治めておられる。そのような方を前にして嘲る彼らの姿は、彼らが霊的に盲目であったことを示している。
 それ以外にも彼らは「さまざまなことを言って」イエス・キリストを罵った(65節)。イエス・キリストが受けられた苦痛と侮辱を思う時、「何故このような目に遭われたのか」という問いが起こってくる。イエス・キリストは罪人である私達が主なる神への反逆罪の故に受けるべき刑罰を代わりに受けられたのである。
 その一方で、イエス・キリストの苦難と十字架の死は、万物の主となるために通らなければならないものであった。私達は、十字架抜きのイエス・キリストをしばしば思い描く。しかし、十字架の苦難がなければ復活の栄光もない。私達はイエス・キリストが受けられた苦難から目を逸らしてはならない。イエス・キリストの苦難に与る者だけが、イエス・キリストと共に栄光に与ることが出来る(ローマの信徒への手紙8章17節)。

(2) メシアであり神の子であられるイエス・キリスト(66~71節)

 夜が明けると、「民の長老会、祭司長たちや律法学者たち」といった最高法院の議員達が集まった。そして、イエス・キリストを最高法院に連れ出して、審問が開始された(66節)。それはローマ帝国の法廷に引き渡す口実を得るための事前審問であった。議員達はイエス・キリストを何とかして死刑にするために不利な偽証を数人の者にさせた。しかし、彼らの証言は互いに食い違っていた(マルコによる福音書14章55~57節)。
 そこで議員達はイエス・キリストに「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」(67節)と要求した。もしメシアであると認めたならば、ローマ帝国への反逆を企てた者として告発しようと考えたのである。それに対し、イエス・キリストは彼らの問いかけにすぐには答えられなかった。答えても、彼らが「決して信じない」(67節)ことを知っておられたからである。神の国に入ることが出来るのは、イエス・キリストを主と信じ、謙って自分の罪を認めることの出来る、心の貧しい者だけである(マタイによる福音書5章3節)。
 その上で、イエス・キリストは彼らを前にして「今から後、人の子は全能の神の右に座る」(69節)と宣言された。イエス・キリストイスラエルの王として来られただけでない。十字架で死なれた後、復活して天に昇られ、「全能の神の右に座」られた。天の父はイエス・キリストを万物を統治する主とされた(エフェソの信徒への手紙1章20~22節)。
 更に、イエス・キリストはご自分が「神の子」であると語られた(70節)。イエス・キリストは、完全な人間であられると同時に、完全な神であられる。にもかかわらず、神の独り子としての栄光の姿を捨てて、人間となられた。そればかりか、罪人である人間から辱めと嘲弄を受けられた。イエス・キリストがご自分を低くされたのは、十字架の贖いの死を通して、ご自分を信じる者を救うためであった。