Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書23章26~32節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書23章26~32節(新共同訳 新約p.158)

(1) 十字架を負われるイエス・キリスト(26節)

 イエス・キリストは、死刑宣告を受けた後、鞭で打たれたり、葦の棒で頭を叩かれたりして(マルコによる福音書15章15節、18節)、体力が限界に達していた。そのため、十字架を背負って前に進むことが出来なくなってしまった。そこで、ローマ帝国の兵士達は、「シモンというキレネ人を捕まえて」(26節)、イエス・キリストの十字架を代わりに運ばせた(26節)。シモンは過越祭のために「田舎から出て来た」(26節)だけであった。にもかかわらず、イエス・キリストの十字架を無理矢理負わされた。ローマ帝国の兵士には植民地の民に労役を課す権限があった。
 その一方で、主なる神がイエス・キリストと共に十字架への道を進む者としてシモンを用いられたことは、イエス・キリストの弟子、即ちクリスチャンの人生を予示している。イエス・キリストは主なる神の刑罰を受けて死ぬべき私達の罪を贖うために十字架への道を歩まれた。その上で、イエス・キリストはそのことによって救われた者がご自分の歩まれた道に付いて来ることを願われた。クリスチャンとは自分の十字架を負ってイエス・キリストに従う者である(9章23節)。
 勿論、十字架への道は楽に付いて行くことの出来る道ではない。この世にあってイエス・キリストに従おうとする時、耐え難い苦しみが伴うこともある。だから、そのような道を歩くことを求められると、私達は応じることに躊躇してしまう。そのような時、イエス・キリストの十字架の贖いの死によって受けた恵みの数々を思い起こしてみよう。また、自分の十字架を負うことの先にある栄光があることを思い起こしてみよう。イエス・キリストが歩いて行かれた道を共に歩む思いが与えられる筈である。

(2) エルサレムに対する裁きを予告されるイエス・キリスト(27~32節)

 キレネ人シモンだけでなく、婦人達も「嘆き悲し」(27節)みながら、イエス・キリストに従った。イエス・キリストは、彼女達の方を振り向いて、「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」(28節)と語られた。これはエルサレムにやがて臨む裁きに対する警告である。「エルサレムの娘たち」はイエス・キリストのために泣いたが、イエス・キリストエルサレムのために嘆き悲しまれた。
 十字架につけられたイエス・キリストは、主なる神から復活の栄光を受ける。それに対し、イエス・キリストを拒んで十字架につけたエルサレムは、主なる神の裁きと呪いを受ける。その時エルサレムの人々が受ける裁きは、「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」(29節)と言われるほど悲惨なものであった。その裁きの中で彼らは絶望し、自ら死を望むほどであった(30節)。イエス・キリストの予告通り、エルサレムはA.D.70年に滅亡した。
 私達は主なる神の裁きを軽んじ、侮ってはいないだろうか。私達現代人は何の根拠もなく自分は天国に行けると考えてしまう。クリスチャンの中にも、教会にさえ属していれば救われると考える人がいる。しかし、そのようなことは聖書のどこにも書かれていない。全ての人は罪人であり(ローマの信徒への手紙3章23節)、自分が犯した罪に対する裁きを受けなければならない。その裁きは誰も逃れられない。イエス・キリストを主と信じず、自分の十字架を負って、イエス・キリストの言葉に聴き従うこともせず、救いを確信することは、「土台なしで地面に家を建て」(6章49節)るようなものである。
 イエス・キリストの贖いの死によって私達は罪の赦しを受け、義とされる。イエス・キリストは「二人の犯罪人」と共に「死刑にされるために、引かれて行った」(32節)。当時十字架刑は極悪な犯罪者だけが受ける刑罰であった。2人の犯罪人は自分が犯した罪の故に裁きを受けて十字架刑に処せられたが(41節)、イエス・キリストは何の罪もない方であられるにもかかわらず、極悪人としての扱いを受けた(イザヤ書53章9節)。それは、私達の全ての罪を代わりに負い、私達が受けるべき刑罰を代わりに受けるためであった。
 イエス・キリストに従う者には命と幸いがもたらされるが、イエス・キリストを拒む者は呪いから抜け出すことが出来ず、死と災いがもたらされる。私達の罪を贖って下さったイエス・キリストの十字架の恵みを心に深く刻もう。そして、罪を憎み、罪と戦うために、主なる神から新しい心をいただこう。