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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書23章33~43節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書23章33~43節(新共同訳 新約pp.158-159)

(1) 罪人のために執り成すイエス・キリスト(33~38節)

 イエス・キリストは罪人として十字架上で死なれた。ユダヤ人が長い間待望していたメシア(キリスト)であるにもかかわらず、ユダヤ人によって拒絶された。罪のない方であるにもかかわらず、2人の極悪な犯罪人と共に十字架につけられ、犯罪人のように扱われた(33節)。
 イエス・キリストは十字架につけられてから死ぬ直前まで、人々の嘲りを受け続けた。最高法院の議員は「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)と嘲笑った。兵士達も「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と侮辱した。彼らの目に、イエス・キリストは、十字架にかけられ、「自分を救う」ことの出来ない敗北者、偽預言者、偽メシア、人生の失敗者、ローマ帝国への反逆者として映った。彼らが思い描いていた力に満ちたメシアの姿、王の姿とは大きく異なっていたからである。
 しかし、イエス・キリストは「神からのメシア」であるからこそ十字架につけられた。ご自分が十字架で主なる神の呪いと裁きを一身に受けることだけが罪人を救う唯一の道だったからである。もしイエス・キリストがご自分を救われたなら、罪人に救いが与えられることもない。だからこそ、耐え難い苦痛の中にあって、自分を十字架につけ、死に追いやろうとしている人々のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(34節)と祈られた。この言葉を通してイエス・キリストはご自分が何故十字架で死なれるのかを示された。
 また、イエス・キリストユダヤ人の王であり、神の国の王であられる。そして、地上にその国を成すために十字架で死なれた。その意味で「ユダヤ人の王」(38節)と書かれた罪状書きは正しかった。そして、イエス・キリストは十字架で罪に勝利された。それ故、イエス・キリストを主と信じる者は神の国の民とされる。
 イエス・キリストがお語りになられたように、イエス・キリストが十字架にかかられた理由と結果について正しく知らなければ、私達はイエス・キリストを正しく信じることが出来ない。兵士達はイエス・キリストユダヤ人の王として十字架につけられたことを知らなかったが故に嘲った。祭司長や律法学者は、主なる神に仕えていると言いながら、イエス・キリストがメシア、ユダヤ人の王である筈がないと信じて疑わなかった。真の信仰は、イエス・キリストを正しく理解し、イエス・キリストに自分を委ねることである。

(2) 罪人に救いを告げるイエス・キリスト(39~43節)

 イエス・キリストの横で十字架にかけられていた犯罪人の一人は、死にゆく中で「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)とイエス・キリストを罵った。しかし、もう一人の犯罪人は、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(41節)と述べた。その上で、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と願った。他の福音書を見ると、2人ともイエス・キリストを罵ったと記されている(マタイによる福音書27章44節、マルコによる福音書15章32節)。罵った犯罪人の一人は、十字架上のイエス・キリストの言葉を聞いて、心に変化が生じたと考えることが出来る。誰もがイエス・キリストを排斥し、嘲る中にあってイエス・キリストを信じたことは、聖霊の働きの結果である(コリントの信徒への手紙12章3節)。
 イエス・キリストの隣で十字架につけられた2人の犯罪人は、刑罰を受けて当然の極悪な犯罪人であったが、それは私達も同じである。私達も数えきれないほど多くの罪を犯し、主なる神から赦される望みの全くない者、自分が犯した罪に相応しい罰を受けて死ぬべき存在であった。しかし、イエス・キリストは「何も悪いことをしていない」方であるのに十字架につけられた。罪人を赦して神の国に入らせるために、人間の罪を代わりに負い、十字架でその刑罰を受けられた。
 それ故、イエス・キリストは十字架で流された血潮によってあらゆる罪に対する赦しを与えることがお出来になる。私達がイエス・キリストを救い主として、主として受け入れ、悔い改めるならば、その十字架の贖いによって救われる。イエス・キリストに依り頼んで生きるなら、私達もイエス・キリストから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)という希望をいただくことが出来る。これは有り得ない恵みである。