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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書24章1~12節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書24章1~12節(新共同訳 新約pp.159-160)

(1) 空の墓を目撃した婦人達(1~8節)

 安息日が終わった「週の初めの日の明け方近く」、婦人達は「準備しておいた香料を持って」イエス・キリストの墓に行った(1節)。香料は死体の防腐処理のためのものである。彼女達は安息日の直前にイエス・キリストを急いで葬ったため、葬りですべきことを十分に出来なかった。このことから彼女達がイエス・キリストを心から愛してはいたけれども、イエス・キリストの復活については考えていなかったことが分かる。
 ところが、墓を塞いでいた石が脇に転がされており(2節)、イエス・キリストの遺体は見当たらなかった(3節)。イエス・キリストの死と葬りを見守った婦人達が、墓を見間違える筈がない。空の墓はイエス・キリストの復活の確かな証拠であった。
 婦人達は誰かが遺体を持って行ったと思い、途方に暮れた(4節)。その時、「輝く衣を着た」2人の天使が現れた(4節、23節)。その姿は栄光の復活を証しするのに相応しい姿である。天使は「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5~6節)と告げた。
 その上で、天使はイエス・キリストが「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」(6節)と促した。イエス・キリストは、公生涯の間、「人の子は必ず、罪人の手に殺され、十字架につけられ、三日目に復活する」と何度も語られた。イエス・キリストの復活は、予期せぬ出来事ではなくイエス・キリストの言葉の成就であった。このことを通してイエス・キリストの言葉と働きが真実であることが立証された。
 婦人達は、十字架と復活に関するイエス・キリストの言葉を思い出し(7~8節)、イエス・キリストの復活を悟った。当時法的な証人になれなかった女性が復活の最初の証人となった。
 キリスト教の核心的な真理は、イエス・キリストの贖いの死と復活である。イエス・キリストの復活は、イエス・キリストが神であり、救い主であることの確かな証拠である。「イエス・キリストの復活を信じられない」と言う人は多い。彼らは復活を非科学的であると考える。しかし、イエス・キリストの復活は確かな証拠と証人が存在する歴史的事実である。
 また、イエス・キリストの復活は、イエス・キリストの言葉の成就である。イエス・キリストがお語りになったことは全てその通りになる。イエス・キリストが罪と死に勝利されたから、私達も罪と死の力から解放された。私達をこの世に打ち勝たせるものはイエス・キリストの言葉だけである。いつも聖書に触れ、イエス・キリストの言葉を忘れないことによって、私達は復活の希望へと導かれる。そして、この世における恐れや不安に打ち勝ち、復活の証人として歩むことが出来る。

(2) 婦人達の証言を信じられなかった弟子達(9~12節)

 イエス・キリストが復活された日の朝には驚きと恐れ、また混乱があった。イエス・キリストの復活の知らせを聞いた婦人達は、空の墓から戻ると、イスカリオテのユダを除く「十一人とほかの人皆」に一部始終を知らせた(9~10節)。彼女達はイエス・キリストにずっと付いて行き、十字架の死と葬りにも立ち会った。
 だが、弟子達は、婦人達から空の墓の証言を聞いても、「この話がたわ言のように思われたので」(11節)信じようとはしなかった。彼らは、イエス・キリストから直接訓練を受け、十字架と復活についても聞いてきた。にもかかわらず、彼らが信じられなかったのは、イエス・キリストの復活はすぐには信じ難いことだからである。
 ただ、ペトロは、墓に走って行って、中を確かめた。そこにはイエス・キリストの遺体はなく、「亜麻布しかなかった」(11節)。復活の証しは確認すればするほど多く存在し、証人も増えていく。
 イエス・キリストの復活について聞いても、すぐに信じることは簡単ではない。有り得ないことであると考え、戸惑ってしまう。それ故、私達は2つの方法で復活について語る必要がある。第一に、聖書的な根拠と歴史的な根拠を正しく示すことである。ただ主張するだけではなく、歴史的な事実であることをきちんと説明しなければならない。第二に、イエス・キリストの復活は私達が自分の知恵で理解することの出来ない福音であることを認め、聖霊の働きを求めることである。私達は、聖霊の照らしと助けを受け、聖書の言葉を想い起こすことによって信仰に到ることが出来る。最も良くないことは、復活について語るのを恥ずかしがることである。福音は大胆に伝えるべきものである。