Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書24章28~43節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書24章28~43節(新共同訳 新約p.161)

(1) イエス・キリストが復活されたことを知る弟子達(28~35節)

 2人の弟子は、イエス・キリストが「聖書を説明してくださったとき」、心が熱くなり(32節)、「一緒にお泊まりください」(29節)と願った。イエス・キリストは、彼らと一緒に食事の席に着き、パンを取って祝福し、彼らにお渡しになった(30節)。すると、2人の弟子の目は開け、自分の目の前にいるのが復活されたイエス・キリストであることに気付いた(31節)。
 その時、イエス・キリストの「姿は見えなくなった」(31節)。けれども、イエス・キリストが復活され、今も生きておられることを弟子達は確信するに到った。彼らはイエス・キリストを信仰によって見ることが出来るようになった。イエス・キリストはトマスにも「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネによる福音書20章29節)と言われている。
 イエス・キリストが復活されたことを知った2人の弟子は、彼らはすぐにエルサレムに戻った(33節)。日が暮れていたが、復活されたイエス・キリストを伝えたいという思いを止めることは出来なかった。イエス・キリストの復活は、衝撃的で驚くべきニュースである。そして、イエス・キリストの十字架の贖いが事実であることを確信させる。このことを知った者は、その福音を伝えずにはいられなくなる。
 エルサレムでは11人の弟子達とその仲間が集まって(33節)、イエス・キリストが復活して、シモンに現れたことについて話していた(34節)。2人の弟子も自分達が見て知ったことを話した(35節)。イエス・キリストの復活は、多くの証人がいる客観的な事実である。
 私達はイエス・キリストの復活をどれほど確信しているだろうか。イエス・キリストの復活はキリスト教の最初期から今日まで教会が信じ、伝え続けてきた核心のメッセージである。イエス・キリストの復活は、聖書の真理であり、私達の勝利と希望の根拠である。復活は事実なので、私達が恐れるべきものは何もなく、再び立ち上がることが出来る。私達のために苦しまれ、死に打ち勝たれたイエス・キリストは、今も生きておられ、共にいて下さる。私達の唯一の望みである復活されたイエス・キリストを宣べ伝えていこう。

(2) 肉体的に復活されたイエス・キリスト(36~43節)

 復活されたイエス・キリストは、弟子達に集まっていた所の「真ん中に立ち」、「あなたがたに平和があるように」(36節)と言われた。弟子達は恐れ戦き、イエス・キリストを亡霊であると考えた(37節)。それに対し、イエス・キリストは、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」(38節)と言われ、ご自分の手と足を示しながら(40節)、肉体的に復活されたことを弟子達に語られた(39節)。それでも弟子達が信じられず、不思議がっていると(41節)、焼いた魚を彼らの前で召し上がられた(42~43節)。こうしてイエス・キリストは、ご自分の復活の確かさを弟子達に分かるように証しされた。
 イエス・キリストは肉体的に復活された。復活以前の姿と連続性のある体の復活である。そして、再臨の時にもこの復活された姿で来られる(使徒言行録1章11節)。イエス・キリストは、ご自分が肉体的に復活されたことを弟子達がよく理解し、確信することを願っておられる。そのことが信仰と希望の根拠だからである。イエス・キリストの実際的な復活は、イエス・キリストの救いの御業が完全に成就したことを確信させる。
 イエス・キリストの復活はキリスト者の希望である。イエス・キリストが栄光の体で実際に復活されたので、私達もイエス・キリストのように実際に復活することを確信出来る。復活に対する信仰や理解が曖昧であったり、疑いがあると、教会生活に熱心であっても、躓きや誘惑に直面した時、脆くも崩れ、困難や苦しみを克服することが難しくなる。復活の信仰だけが、どのようなことがあっても、それを乗り越えさせる力となる。だから、聖書を読み、聖霊の助けを受けて、イエス・キリストの肉体的な復活について確信することは大変重要である。