Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ミカ書1章8~16節

聖書の黙想と適用 ミカ書1章8~16節(新共同訳 旧約pp.1449-1450)

(1) 預言者ミカの慟哭(8~9節)

 預言者ミカは主なる神の裁きを伝えたが、自分が宣告した主なる神の言葉に胸が引き裂かれそうな思いになった。ミカは「裸、はだしで歩き回り」、「山犬のように悲しみの声をあげ/駝鳥のように嘆」いた(8節)。これからサマリアが受ける「痛手はいやし難く」、サマリアに臨む裁きはやがて「ユダにまで及び」、そして「エルサレムに達する」からである(9節)。イスラエル(北王国)は、主なる神の言葉に耳を傾けず、偶像に仕えて滅びたが、ユダ(南王国)も同じ道を歩んでいた。
 裁きの預言は悔い改めへの呼びかけであり、主なる神の言葉は必ずその通りになるという警告である。イエス・キリストが「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」(ルカによる福音書5章31節)と言われたように、自分が病んでいることを自覚した時、初めて人は医者のもとに向かう。そして、治療を受けることが出来る。しかし、自分が罪人であることを認めない者は、悔い改めることもせず、そのため裁きが近づく。
 ここでミカは自分を第三者の立場に置いて主なる神の言葉を語っているわけではない。彼自身も裁きの宣告に痛み、悲しみ、慟哭した。更に、ミカにそれを告げるよう命じた主なる神ご自身も、悲しみ、心を痛められた。

(2) ユダの町々に対する裁き(10~16節)

 ミカはユダに下る主なる神の裁きについて預言した。10~15節に出てくる町々はユダの南西部に位置していたと考えられる。征服者による略奪と破壊は、ユダの北部から始まり南部まで及ぶ。
「ツァアナン」の住民は「裸で恥じて出て行」き、「ベト・エツェル」にも「悲しみの声が起こ」るなど、ユダが頼れる所は次々になくなっていく。それ故、ミカは「シャフィル」の住民に「立ち去れ」と忠告する(11節)。
 また、「マロト」の住民は「幸いを待っていた」が、「災いが主からエルサレムの門にくだされ」るため、誰も幸いを見ることは出来ない(12節)。
「ラキシュ」の住民も、「戦車に早馬をつな」いであたふたと逃げることになる。ラキシュはユダに偶像がもたらされる入口だったのだろう。ミカはラキシュを「娘シオンの罪の初め」と呼び、「お前の中にイスラエルの背きが見いだされる」と批判している(13節)。
 主なる神の裁きの結果、ユダの人々は故郷を離れることになる(14節)。「アドラム」(15節)はダビデがサウルに追われた時に逃れた町である(サムエル記上22章1節)。しかし、アドラムまで逃れようとも、そこさえも最早ユダの民を守ってはくれない。主なる神の裁きを避けられる所はどこにもない。更に、征服者は、彼らの子供達に対し、力の源と考えられていた親の「髪の毛をそり落と」すという屈辱を与える(16節)。
 主なる神の裁きは、ユダの人々から全てのものを奪い、破壊してしまう。それは人間の力で耐えることの出来るものではない。主なる神の裁きが臨む前に私達は悔い改めるべきである。