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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ミカ書2章1~13節

聖書の黙想と適用 ミカ書2章1~13節(新共同訳 旧約pp.1450-1451)

(1) 貪欲な支配層の罪とそれに対する裁き(1~5節)

 ユダ(南王国)の罪は、個人を越えて組織的になっていた。イスラエルの支配層は「寝床の上で悪をたくらみ/悪事を謀」った。そして、朝になるとそれを行った。具体的には彼らは「貪欲に畑を奪い、家々を取り上げ」、「住人から家を、人々から嗣業を強奪」した(2節)。彼らはそれを行うことの出来る「力をその手に持って」いた(1節)。主なる神は十戒において「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20章17節)と命じられた。彼らが貧しい人々に対して行った搾取は、律法に反する不当な行為であった。
 主なる神は、自分が所有している富を弱い者、貧しい者を助けるために使う人を祝福される。一方、富を独占し、自分の利益しか考えなくないエゴイストに呪いをもたらされる。祝福を与える人は更に祝福され、祝福を自分のもとに留める人は損失を被る。イエス・キリストも「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」(ルカによる福音書12章15節)と教えられ、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と悔い改めた徴税人ザアカイに「今日、救いがこの家に訪れた」(同19章8~9節)と宣言された。
 主なる神は支配層の罪を隅から隅までご存知であられた。それ故、「この輩に災いをたくら」まれた。主なる神に逆らい、貧しい人々の相続地を奪い取ろうとした支配層に下る災いとは、異邦人の捕虜にされることであった(3節)。イスラエルは敗北し、人々は彼らに対して「嘲りの歌をうたい/苦い嘆きの歌をうた」うようになる。そして、支配層が陰謀と悪事によって貧しい人々から奪い取った土地は「取り去られ」、「人手に渡され」てしまう(5節)。彼らが自分の利益のために他人を不幸にした邪悪な計画は、主なる神の裁きによって空しい結果に終わる。
 冨が与えられること自体は主なる神に対する罪ではない。それは主なる神が私達に下さった祝福である。しかし、欲に囚われ、広大な畑を既に所有しているにもかかわらず満足出来ないとしたら、私達は悔い改めなければならない。

(2) 主なる神の言葉に対する拒否(6~13節)

 私達は本能的に裁きを否定する。自分がどれだけ悪を行ったとしても、裁きが自分に下されるということを信じたくないからである。だが、主なる神の裁きが下される時が必ずやって来る。だから、私達は罪を悔い改めて、主なる神に立ち帰らなければならない。
 貪欲に陥って罪悪を犯す人々の特徴は、主なる神の言葉に耳を閉ざすことである。イスラエルの支配層は、ミカが語る主なる神の言葉を聞いて、「たわごとを言うな」(6節)と述べ、これ以上預言をしないよう脅迫した。彼らは「主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と述べ、主なる神がそのようにして裁くことなど有り得ないと考えていた。罪に陥ると、主なる神さえ自分のために存在すると考えるようになる。
 それに対し、ミカは「わたしの言葉は正しく歩む者に益とならないだろうか」(7節)と答えた。主なる神の言葉は正しく歩む者にとって益となる。主なる神の言葉を通して、私達は正しい考えを養われ、正しい行いへと導かれる。
 しかし、彼らは主なる神の言葉を拒否したことによって悪事を行い続けた。イスラエルの支配層は同胞からまるで「敵」のように「衣服をはぎ取」った(8節)。また、頼る者のいない女や幼子の住まいまで奪った(9節)。それは「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない」(出エジプト記22章21節)という律法の違反に他ならなかった。主なる神が律法を与えられたのは愛の故であるが、それを聴こうとしないと人間は堕落していく。罪は私達が悪を行った時に自分が悪い行いをしているということを分からなくさせる。
 その一方で、彼らは偽預言者の偽りの言葉には耳を傾けた(11節)。偽預言者は主なる神の御心には関心がなかった。彼らはただ人の心を満たし、人から相応しい代価を受ければそれで十分であると考えた。「ぶどう酒と濃い酒」を飲めば、気分が良くなるように、偽預言者は人々に悔い改めを迫らず、イスラエルの民が聞いていて自己満足に浸れるメッセージだけを伝えた。そして、偽預言者による人間中心のメッセージを聞いた民は、ますます罪に走り、主なる神の怒りは更に大きくなっていった。主なる神の言葉を聞く時、罪の悔い改めが起こるが、虚しいメッセージばかりを聞いていたイスラエルの民には希望が閉ざされていた。
 結局、主なる神は彼らに対して裁きを宣言される。主なる神は彼らに「立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である」と言われた(10節)。カナンは約束の地であった。しかし、彼らは罪を一向に悔い改めなかったためにそこから立ち去るよう主なる神に命じられた。主なる神を捨てた代価は滅びである。
 だが、主なる神は裁きの中にも憐れみと恵みを注いで下さる。イスラエルが裁かれ、国が滅びたとしても、主なる神は「イスラエルの残りの者を呼び寄せ」、牧場の羊のように顧みて下さる。そして、再び立ち上がることが出来るようにして下さる。