Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ミカ書3章1~12節

聖書の黙想と適用 ミカ書3章1~12節(新共同訳 旧約pp.1451-1452)

(1) 聖霊によって満たされたミカ(1~8節)

 イスラエルの指導者の罪は、民の罪より遥かに深刻だった。彼らはイスラエルの牧者として立てられ、「正義を知ること」を主なる神に求められていた(1節)。しかし、実際にはそれとは正反対に「善を憎み、悪を愛」(2節)した。具体的には、屠殺場で動物の「皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る」(2節)ように、民からの搾取を日常的に行い、民を苦しめた。彼らは自分の貪欲を満たすために、正義を捨てた。
 国の支配層の罪が余りにも酷かったので、主なる神は彼らに裁きを下される。彼らは主なる神の言葉を聞くことを拒んだので、主なる神も「彼らが主に助けを叫び求めても」答えられない(4節)。
 また、預言者も貪欲に陥り、自分の口と腹を満たしてくれる者には祝福を宣言し、そうでない者には呪いを告げた(5節)。民が死のうが、どんなに酷い生活を送っていようが、全く関心を示さなかった。主なる神の言葉を伝えるべき者が、主なる神に逆らう者になってしまった。
 預言者は、主なる神の御前でその言葉を聴き、主なる神が語られたことを聴いたままに民に伝える者として立てられた。自分の状況や周囲の環境に合わせて都合の良いことを語るために立てられたのではない。それ故、主なる神は、敬虔を利得の手段と考える偽預言者に対し、「お前たちには夜が臨んでも/幻はなく/暗闇が臨んでも、託宣は与えられない」(6節)という呪いを宣告された。主なる神が彼らに語られなくなったので、「先見者」(預言者)は「うろたえ」、「恥をか」く(7節)。預言者としての務めを果たさない者の口を、主なる神は封じられる。
 一方、預言者ミカは迫害の中にあっても「力と主の霊/正義と勇気」で満たされた(8節)。国の指導者に直言することは決して容易ではない。しかし、聖霊に満たされた彼は、主なる神によって強められ、勇敢にされ、死も迫害も恐れず、主なる神の言葉をまっすぐに伝える力を与えられた。ミカは、人を恐れず、ただ主なる神だけを畏れ、「ヤコブに咎を/イスラエルに罪を告げ」(8節)た。
 私達は自分の力では世の偽りに勝つことが出来ない。聖霊に満たされることによってのみ、世を恐れずに主なる神の言葉を語ることが出来る。世に染まらず、世に勝つことが出来る。イエス・キリストが求める者には与えると約束して下さった聖霊をいつも求め(ルカによる福音書11章13節)、罪を遠ざけ、主なる神が望まれるように生きていこう。

(2) イスラエルの支配層に対する裁きの宣告(9~12節)

 イスラエルの統治者は正義をもって国を治め、祭司は主なる神に正しく仕えるよう民を導き、預言者は主なる神の言葉を正しく伝えなければならなかった。しかし、ミカの時代の支配層は「賄賂を取って裁判をし」、祭司や預言者も金銭に目がなく、「代価を取って教え」たり、「託宣を告げ」た(11節)。指導者の腐敗はそのもとにある社会と民に影響を及ぼし、国全体が腐敗してしまった。エルサレム(シオン)は正義ではなく流血と不正で満ちた(10節)。しかも、そのように主なる神を全く畏れていなかったにもかかわらず、彼らは「主が我らの中におられるではないか/災いが我々に及ぶことはない」(11節)と高ぶっていた。
 だが、彼らは自分が寄りかかる主なる神によって裁きを受けることになる。彼らの罪はエルサレムを「畑」にし、「石塚」にしてしまう。神殿の山も「木の生い茂る聖なる高台」となってしまう(12節)。即ち、エルサレムもそこに立つ神殿も滅ぼされて廃墟になってしまう。主なる神を捨てて生きるところには罪と悪が満ち、貪欲の結果は滅びである。主なる神が語って下さっている間に私達は立ち帰らなければならない。また、国の指導者が正義を大切に考える者となるよう祈ろう。