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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ミカ書4章1~5節

聖書の黙想と適用 ミカ書4章1~5節(新共同訳 旧約pp.1452-1453)

(1) 全ての民族が主なる神の言葉に従うようになる(1~2節)

 主なる神は裁きの中でも憐れみを忘れられない。預言者ミカは、エルサレムが廃墟となることを宣言した後(3章12節)、「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる」と告げた(1節)。裁き主であられる方は、ご自身が打ち倒された民を見捨てず、以前に優って栄光に満ちた姿で回復して下さる。それは彼らが偉大だからではなく、主なる神の恵みと憐れみが彼らに臨むからである。
 また、その時、「多くの国々」が「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と述べ、「主の山に登り、ヤコブの神の家に」向かうようになる。そこで「主の教え」を、「御言葉」を聴くことが出来るからである(2節)。イスラエルの民にはシナイ山で既に律法が与えられていたが、律法は彼らの専有物ではなくなる。全ての民族に主なる神の言葉が与えられ、全ての民族が主なる神の言葉を心から慕うようになる。
 主なる神の言葉を与えられる時、異邦の民も変えられていく。罪と死の道から解放され、命の道に入る。イエス・キリストが「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(ルカによる福音書13章29節)と言われたように、ミカが語った預言は今も実現しつつある。

(3) 主なる神の統治の下で真の平和が実現する(3~5節)

「終わりの日」には全世界が真の平和で満たされる。主なる神が「多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる」(3節)からである。天地万物の主であられる神のご主権が及ばない所は存在しない。正義と公平を欠いた裁きは争いをもたらすが、真理は平和をもたらす。主なる神の言葉は常に正しい。
 主なる神の言葉に全ての民族が従うようになった時、人々は「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする」ようになる。そして、「国は国に向かって剣を上げ」ることがなくなるので、戦いのための訓練も最早必要でなくなる(3節)。欲望に囚われている時、私達は他人のものを力づくで奪おうとする。そして、そのために軍備を増強することに必死になる。そこには愛は存在せず、妬みと恐れが原動力になっている。しかも、どれだけ奪っても、決して満たされることはない。
 世界から戦争が消えたことはこれまで一日もなかったが、主なる神の言葉が支配する時、真の平和が望む。そして、私達が主なる神の言葉に従う時、その平和の前味を味わうことが出来る。また、主なる神の言葉に従う者は、人を生かし、平和を実現するために努力し始める。主なる神の言葉だけが人間を回復に到らせる。
 更に、主なる神が統治する平和な世界においては、他人のものを欲しがったりせず、自分が所有しているもので満ち足りるようになる。そこでは「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もない」(4節)。この世における不幸の多くは、他の人と自分を比較することやもっと多くのものを持とうとすることから始まる。他の人よりも多く持ち、他の人よりも高い所に上るために、私達は富と権力を手に入れ、他の人から奪おうとする。そのためにこの世にはいつも戦いがあり、満足がない。しかし、主なる神の統治下では私達は主なる神が与えて下さるものによって喜び、満ち足りる。その結果、他人に危害を加えようとすることもなくなる。主なる神に依り頼み、その言葉に堅く立つ時、平和が実現する。
 今私達が生きている世においては「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩」んでいる。そこには完全な正義は存在しない。そのため私達はいつも不満と恨みを抱いて生きている。それに対し、ミカは「我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む」と言う(5節)。この世に存在するものは永遠ではない。それらは有限であり、日々変化するので、人間が真に依り頼むことは出来ない。ただ主なる神だけが永遠である。主の御名には力があり、命がある。主なる神だけが世のあらゆるものを生かして下さる。主なる神の統治下にのみ真の平和は存在する。