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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ミカ書4章6~13節

聖書の黙想と適用 ミカ書4章6~13節(新共同訳 旧約pp.1453-1454)

(1) 追いやられた者を再び呼び寄せる主なる神(6~8節)

 裁きは終わりではなく、回復のプロセスである。裁きを通してきよめられた後、主なる神はご自身の民を再び集められる。散らされることは裁きであり、集められることが救いである。主なる神は「その日」に「足の萎えた者を集め/追いやられた者を呼び寄せる」(6節)。そして、彼らを「残りの民としていたわり」、「遠く連れ去られた者を強い国とする」(7節)。律法によれば「足の萎えた者」は祭司として主なる神に食物をささげる務めを行うことが出来なかった(レビ記21章17~23節)。また、「遠く連れ去られた者」は主なる神によって裁かれ、異邦人の笑い者となった人々である。そのような彼らを「残りの者」「強い国」とするというのである。
 主なる神は私達の人生を逆転させて下さる方である。世で認められていない人々、見下されて肩身の狭い思いをして生きてきた人々を、主なる神は集められる。これこそが主なる神の摂理であり、計画であり、恵みである。イエス・キリストも徴税人や売春婦、罪人や病人を招かれた。ファリサイ派の人々や律法学者、祭司はそのようなイエス・キリストを嘲った。しかし、そのことによって「後にいる者が先になり、先にいる者が後にな」(マタイによる福音書20章16節)った。主なる神の逆転は今も存在する。主なる神は弱い者を強くして下さる方である。
 また、主なる神は、エルサレムをご自分の「娘」と呼び、「かつてあった主権が、娘エルサレムの王権がお前のもとに再び返って来る」(8節)と約束された。エルサレムを守るのは、武力や政治的な力ではなく、主なる神である。ここで主なる神が語られた「その日」についての約束は、この時すぐに全てが実現したのではなく、漸進的に実現していった。ユダ(南王国)の民がバビロンから帰って来た時、「その日」は始まった。その後、主なる神は、イエス・キリストに「父ダビデの王座」をお与えになった。以後イエス・キリストは「永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカによる福音書1章32~33節)。

(2) 苦しみを救いに、敗北を勝利に変えられる主なる神(9~13節)

 救いのためには代価が必要である。ユダに対する主なる神の計画は、まず罪を懲らしめることであった。罪を犯したユダは「子を産む女のように」苦しまなければならなかった(9~10節)。王が絶たれ(列王記下 25章7節)、「参議たちも滅び去」り、民は捕囚として「町を出て、野に宿らねばならな」(10節)かった。彼らの苦しみは、とても大きく、耐え難いものであった。
 しかし、「バビロンにたどりつけば」、主なる神がユダの民を救い、敵の手から贖って下さるとミカは預言した(10節)。主なる神はご自身の民を守られる。そして、戒めの時が過ぎれば、再び立ち上がらせて下さる。悪が除かれた後に平和が訪れる。裁きの後に隠されている主なる神の恵みは測り知れない。
 一方、「多くの国々の民」がユダを攻撃するために集まり、ユダを苦しめ、ユダの敗北と滅びを「この目で見よう」とした(11節)。実際、エルサレム神殿は破壊され、神殿の器物は略奪され、民は捕えられ、バビロンに連れて行かれていった。しかし、「彼らは主の思いを知らず/その謀を悟らない」(12節)とミカは預言する。主なる神は悪を行う者を憐れんで忍耐される。悪人は主なる神の忍耐と憐れみを、主なる神の無能や不在であると誤解し、一層悪辣になる。しかし、悪人の振る舞いは主なる神が裁きを下されないことを意味しない。
 主なる神は忍耐と憐れみを通して悪人を「麦束のように/打ち場に集められ」(12節)る。時が来れば、彼らも裁きを受けることになる。彼らを打ち砕くのは神の民である。主なる神はそのためにご自分の民を強くされる(13節)。これが主なる神の作戦であり、知恵である。
 主なる神は敗北を勝利に変えられる方である。今は弱く、苦しみの中にあるとしても、敗北しているように見えたとしても、それが終わりではない。主なる神は逆転勝利のための計画を立てておられる。主なる神が戦われる時、敵対出来る者は誰もいない。そして、主にある者も勝利に与る。イエス・キリストを通して救われた神の民には、イエス・キリストと共にこの世を治める権威が与えられる(ヨハネの黙示録 2章26~27節)。そして、全世界が主なる神の栄光で満ちる時がやって来る。逆転の神を信頼して歩んでいこう。