Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ミカ書4章14節~5章8節

聖書の黙想と適用 ミカ書4章14節~5章8節(新共同訳 旧約pp.1454-1455)

(1) ベツレヘムから出る新しい王(1~5節)

 ミカは主なる神が遣わされる新しい王について預言した。ミカによれば、敵は「イスラエルを治める者の頬を杖で打つ」(4章14節)が、その後「イスラエルを治める者が出」(1節)てくる。ユダ(南王国)は最後の王ゼデキヤがバビロンに連れて行かれて滅亡する(列王記下 25章7節)。しかし、新しい王が誕生してイスラエルを治めるようになる。
 主なる神が立てられる新しい王は、エルサレムではなく、ダビデの故郷の小さな町「エフラタのベツレヘム」でお生まれになる(1節、マタイによる福音書 2章1節、ルカによる福音書2章6節)。主なる神は「永遠の昔」(1節)から救いのご計画を持っておられ、偉大な知恵をもってベツレヘムを選ばれた。
 ベツレヘムに来られる新しい王は「主の力、神である主の御名の威厳をもって」(3節)ご自身の民を治められる。羊の「群れを養う」牧者のようにご自身の民を導かれる。この方は主なる神の力によって働かれるので敵対出来る者はいない、そのため、彼の群れは次第に大きくなっていく。やがてその支配は地の果てにまで及ぶようになる(3節)。また、新しい王はご自身の民の「平和」となって下さる(4節)。食料が尽き、飢えに苦しむエルサレムの民を見捨てて逃げた挙句、バビロンに連れて行かれたゼデキヤとは違い(列王記下25章3~7節)、新しい王は民のために戦われる。敵が攻めて来た時には民を敵から救って下さる(5節)。
 ミカの預言通り、イエス・キリストは王としてベツレヘムに来られた。イエス・キリストの「出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(1節)。イエス・キリストは、永遠の昔からおられる方であり、主なる神であられる。そのような方が神殿でも王宮でもなく、小さな町ベツレヘムでお生まれになった。このことは、尊い永遠なる神が卑しい地で生まれたことによって、彼に従う卑しい者を高くして下さることを暗示している。一方、ベツレヘムとは「パンの家」という意味である。このような名を持つ町でお生まれになられたことは、「命のパン」(ヨハネによる福音書6章48節)であられるイエス・キリストに相応しい。
 また、イエス・キリストはご自身の民に平和を賜物として与えて下さる。イエス・キリストは弟子達に「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と言われ、「心を騒がせるな。おびえるな」と励まされた(ヨハネによる福音書14章27節)。イエス・キリストは、悪霊にも病にも風にも荒波にも命じることの出来る権威と力を持った方である(ルカによる福音書4章36節、39節、8章24節)。そして、私達の心を愛で満たし、恐れることがないようにして下さる。軍事力や政治力、経済力は真の平和をもたらさない。真の平和はイエス・キリストご自身である。イエス・キリストを主と信じることが真の平和に到る道である。イエス・キリストはあらゆる悪しき勢力から私達を守って下さる。そのことによって私達は世が与えることの出来ない平和で満たされる。

(2) 祝福と裁きをもたらすヤコブの残りの者(6~8節)

 神の民は主なる神の恵みによって生きる。「ヤコブの残りの者」は、主なる神の恵みによって残された者であり、主なる神の恵みによって歩む。彼らは「多くの民のただ中にいて/主から降りる露のよう/草の上に降る雨のよう」(6節)な存在となる。即ち、ヤコブの残りの者は、かつて主なる神がアブラハムに約束されたように(創世記12章2~3節)、諸民族に祝福をもたらす。その一方で、ヤコブの残りの者は彼らに敵対する者に裁きをもたらす。彼らは「羊の群れの中にいる若獅子のよう」(7節)な存在でもある。
 イエス・キリストを主と信じて受け入れた者、即ちクリスチャンは、アブラハムの子孫であり、神の民である(ガラテヤの信徒への手紙 3章29節)。クリスチャンが伝える主なる神の言葉にどのように反応するかによって、この世の人々は祝福と呪いに分けられる。クリスチャンは祝福の源であると同時に、世を裁く者でもある(コリントの信徒への手紙一6章2節)。主なる神はクリスチャンを通して世に罪を示し、裁かれる。主なる神の言葉を受け入れない者は、裁きの時、ティルスやシドンよりも厳しい罰が臨むことになる(ルカによる福音書10章14節)。