Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ローマの信徒への手紙3章21~31節

聖書の黙想と適用 ローマの信徒への手紙3章21~31節(新共同訳 新約p.277)

(1) 信仰によって義とされる(21~26節)

 主なる神は人間に律法を与えられたが、人間は罪を犯し、それに従うことが出来なかった。そのため、人間は皆「神の栄光を受けられなく」(23節)なった。主なる神は、憐れみ深い方であられるので、長く「忍耐してこられた」。しかし、完全に「正しい方」でもあられるので、罪をそのままにはしておかれない(26節)。罪を裁くことがなければ義ではない。とはいえ、私達は自分の力で罪から自由になることは出来ない。律法をどれほど忠実に行おうとしても、主なる神が要求する義の基準には到底及ばない。
 完全な義を損なうことなく、罪深い人間を愛して救うというのは、矛盾し、不可能に見えることである。しかし、主なる神はそれを成し遂げられた。それが「イエス・キリストを信じること」による救いである(22節)。
 イエス・キリストは、罪のない方であられ、律法を完全に守られた。そして、人間の罪に対する責任を代わりに負って、十字架につけられ、「その血によって信じる者のために罪を償う供え物」となられた。更に、パウロはこのことについて遥かに以前に「律法と預言者によって立証されて」(23節)きたと説明している。「律法と預言者」というのは旧約聖書を指す。旧約の時代、大祭司が年に一度至聖所に入り、民の罪を贖うために契約の箱の蓋に動物の血を振りかけた(レビ記16章14~15節)。それによって律法を守ることが出来なかった人々の罪が赦された。主なる神はこの「罪を償う供え物」とするために、ご自身の独り子イエス・キリストをこの世に遣わされた。
 御子イエス・キリストが人類の罪の代価を払い、死なれたことによって、主なる神は「今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しにな」った(25節)。イエス・キリスト以外に神の義を成就することの出来る者はいない。
 イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの贖いの御業の故に「神の恵みにより無償で義とされる」(24節)。旧約聖書が証ししている主なる神の義は、イエス・キリストを信じる全ての者に与えられる。主なる神の恵みの大きさをもっと悟らせていただこう。

(2) 律法を確立する信仰(27~31節)

 主なる神の完全な義を完成して下さったイエス・キリストを信じることによってのみ、私達は主なる神の御前で義であると認められる(28節)。他の方法や行いによっては決して救われない。「行いの法則」によってではなく、「信仰の法則」によって義と認められたのだから、私達は自分が義と認められたことを誇ることは出来ない(27節)。私達自身には誇るべきものは何一つない。
 また、イエス・キリストを信じることによってのみ義と認められることは、主なる神が「ユダヤ人だけの神」であるだけでなく、「異邦人の神」でもあられることを示している(29節)。「割礼のある者」(ユダヤ人)であれ、「割礼のない者」(異邦人)であれ、イエス・キリストを信じる者を、「唯一」であられる神は義と宣言される(30節)。私達は「イエス・キリストを信じること」によって罪を赦され、恵みに与るのである。
 更に、パウロは、イエス・キリストを信じることによってのみ義と認められることについて、「律法を無にする」ものではなく、却って「律法を確立する」(31節)ものであると述べている。イエス・キリストは律法を廃棄されたのではなく、完成された方である(マタイによる福音書5章17節)。律法を完成されたイエス・キリストを信じることによって、ユダヤ人であれ異邦人であれ、正しい者として御前に立たせることが主なる神の御心である。そのことによって律法は義を明らかにするという役割を果たした。