Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ミカ書6章1~8節

聖書の黙想と適用 ミカ書6章1~8節(新共同訳 旧約pp.1455-1456)

(1) イスラエルが主なる神から受けた恵みの数々(1~5節)

 主なる神は生きておられ、人間に語りかけられる。ミカは「主は御自分の民を告発し/イスラエルと争われる」(2節)と預言する。「山々」と「とこしえの地の基」が、主の告発を聞く証言者である(2節)。勿論、人間が主なる神の告発に反論出来るわけがない。主なる神は、告発を通してイスラエルの民に彼らのアイデンティティを悟らせると共に、ご自身が彼らをどれほど愛しておられるかを示された。そして、「聞け、主の言われることを」(1節)とは、主なる神が裁きを行う前に立ち返る機会をお与えになるという意味である。主なる神は裁きを下す直前までイスラエルの悔い改めを待っておられた。
 主なる神はイスラエルに「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか」(3節)と尋ねている。主なる神が今までイスラエルに行われたのは義であり愛であった。にもかかわらず、彼らは主なる神が自分達を「疲れさせた」(3節)と不平不満を述べた。だが、実際には彼らの方こそ不従順によって主なる神に「もどかしい思いをさせ」(イザヤ書7章13節)てきた。
 主なる神はイスラエルを「エジプトの国から導き上り/奴隷の家から贖った」。また、民の指導者として「モーセとアロンとミリアム」を立て、荒野で40年間導いた(4節)。更に、モアブの地ではバラムとバラクの悪い企みを覆し、バラクの口から祝福が出てくるようにされた(5節、民数記 22~24章)。そして、ヨルダン川の水を干上がらせ、シティム――ヨルダン川の東側にあるイスラエルの最後の宿営地――からギルガル――ヨルダン川の西側にあるイスラエルの最初の宿営地――まで民を渡らせた(5節、ヨシュア記3章)。
 主なる神から受けた恵みの数々を覚えているならば、イスラエルの民は何の反論も出来ない筈である。しかし、彼らはそれらの恵みを忘れてしまった。そのため、主なる神は「わが民よ、思い起こすがよい」(5節)と促している。恵みを忘れることは恩知らずである。恵みを忘れると、憎しみや恨み、不平不満が湧き上がる。主なる神への感謝は、主なる神がして下さったことを「思い起こす」ことから始まる。

(2) 主なる神がイスラエルに求めておられること(6~8節)

 主なる神は、イスラエルがご自身の恵みを覚え、ご自身を礼拝することを望まれた。その一方で、ミカはイスラエルの民の考えの誤りを指摘する。彼らは「焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出」(6節)れば、また「幾千の雄羊、幾万の油」を献げさえすれば、「主は喜ばれる」と考えていた。そればかりか、「わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげる」者さえいた(7節)。自分の子供を殺して生贄として献げることは、主なる神ご自身が厳禁されているにもかかわらず(レビ記18章21節)。
 確かに、主なる神の愛と恵みの深さを知れば知るほど、私達は、自分にとって最も尊いものをもって「主の御前に出で/いと高き神にぬかず」き、それを主なる神に献げることを惜しまなくなる。しかし、生贄を献げさえすればいいという考えは、主なる神の心を全く理解していない。主なる神は羊や牛の肉をもって腹を満たす方ではない。主なる神には足りないものは何一つない。イスラエルは主なる神に正しく仕えることについて全く分かっていなかった。
 主なる神が求めておられるのは、献げ物それ自体ではない。その生贄を献げる者の心である。何を献げるかよりも重要なのは、どのような信仰をもって献げるかである。イエス・キリストが、レプトン銅貨2枚を入れた貧しいやもめについて、「だれよりもたくさん入れた」と言われたのもそのためである(ルカによる福音書21章2~3節)。主なる神を愛そうとせず、主なる神の言葉に従おうともせず、当歳の子牛や幾千の雄羊、幾万の油を献げることは、偽善に過ぎず、主なる神を侮る行為である。
 主なる神はイスラエルの民に「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと」(8節)、即ち、日常生活の中で主なる神の言葉に従い、主なる神と隣人を愛することを求められる。
 礼拝は、主なる神の御前にその民が集まり、主なる神に栄光を帰し、主なる神の導きを求める時である。主なる神に礼拝を献げることは祝福である。しかし、そこで自分自身を献げるという最も重要なものが欠けていることはないだろうか。何よりもまず主なる神を愛し、主なる神と共に歩むことを願い求めよう。