Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ミカ書6章9~16節

聖書の黙想と適用 ミカ書6章9~16節(新共同訳 旧約p.1456)

(1) 主なる神を畏れ敬わないユダ(9~12節)

 主なる神への愛と隣人への愛は、分けて考えることの出来ない関係にある。主なる神の「御名を畏れ敬う」(9節)思いがなかったユダ(南王国)は、隣人を愛することもなかった。主なる神を畏れない人は、その言葉を従わず、自分の考えを基準に生き、罪に満ちた人生を送るようになる。
 律法は神の民に貧しい人を助けるように教えているが、ユダの人々は貧しい人から富を奪った。また、律法は神の民に真実を語ることを求めているが、彼らは偽りばかり語ることが日常になってしまった。商売人は「容量の足りない升」「不正な天秤」「偽りの重り石の袋」を用いて、実際の量よりも多く見えるようにして客を騙し(10~11節)。金持ちも権力をもって貧しい人から搾取したり、彼らを脅すなど、「不法で満ち」ていた。住民も不正に富を蓄えるために「偽りを語」った(12節)。このような罪が蔓延すると、社会正義が崩壊する。主なる神の法によって統治されるべき民は、異邦人と何ら変わらなくなった。
 イエス・キリストは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」(ルカによる福音書12章15節)と教えられた。使徒パウロも「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまな欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます」(テモテへの手紙一5章9節)と警告した。日常生活の中で小さな罪を容認すれば、罪は次第に習慣と化し、より大きな罪を行うようになる。罪は罪を生む。悔い改めなければどんどん深みにはまっていく。その結果、最終的に自分の身に裁きを招くことになる。

(2) ユダが犯した罪に対する代価(13~16節)

 律法には、神の民が戒めを忠実に守らなかった時、彼らに呪いが臨むことが記されている(申命記 28章15~68節)。私達は自分が犯した罪に対する代価をいつか必ず払わなければならない。イスラエル(北王国)を滅亡に到らせたのも、「オムリの定めたこと/アハブの家のすべてのならわし」(16節)であった。オムリ王は偶像礼拝を国中に広げた。アハブ王はそれにバアル礼拝を加えた。電車が線路の上を走るように、一度打ち立てられた体制は容易に変えることが出来ず、以後イスラエルは悪の道を突き進んでいった。そして、ユダもその影響を受けて偶像礼拝と罪悪に染まった。
 主なる神は不正に満ちたユダに対し「お前を撃って病気にかからせ/罪のゆえに滅ぼす」と告げられた(13節)。また、主なる神は彼らを欠乏と虚無によって裁かれる。ユダの人々は、もっと所有すること、もっと富を蓄積することを望んで、様々な罪悪を行ってきた。にもかかわらず、彼らの手に残るものは何もない。「食べても飽くことなく、空腹が取りつ」き、「持ち物を運び出しても、それを救いえ」(14節)ない。「種を蒔いても、刈り入れること」が出来ず、オリーブの実を搾っても、その香油を自分の身に一滴も塗ることが出来ず、新しいぶどうを搾っても、その酒を一滴も飲むことが出来ない(15節)。そして、エルサレムはやがてサマリアのように荒廃し、その住民は「嘲りの的」となる(16節)。
 主なる神は、正しい方法で得なかった富、弱く貧しい人から搾取して築き上げた財産を憎まれる。ユダの人々は、いつも欠乏しており、他の人から奪った富で楽しむことさえ出来なかった。このようにして主なる神は彼らを懲らしめられた。
 主なる神は全てを御覧になっている。時が来ると、主なる神は必ず罪を裁かれる。今上手く行っていたとしても、最後まで上手く行くことはない。クリスチャンは、イエス・キリストの十字架の贖いによって義とされ、義を行えるようにきよめられた。だから、神の民として正しいことを行わなければならない。自分でも気付かないうちに慣れ親しんでしまった罪があるなら一刻も早く捨てよう。主なる神の御前で正しく生きる時、主なる神が与えて下さる豊かな恵みをいつも味わうことが出来る。